倭漢抄下巻(彩牋)― 平安の書と装飾美が融合した国宝

京都市右京区、世界遺産・仁和寺のほど近くに佇む陽明文庫。ここに、平安時代の宮廷文化の粋を凝縮した国宝が静かに息づいています。それが「倭漢抄下巻(彩牋)」です。

「倭漢抄」とは、平安中期の公卿・藤原公任(966〜1041)が編纂した『和漢朗詠集』の別名です。漢詩と和歌の秀句を集めたこの詩歌集は、朗詠(声に出して歌うように読むこと)のために編まれたもので、平安貴族の教養と美意識の結晶ともいえる作品です。陽明文庫に伝わるこの写本は、下巻の残欠(零巻)でありながら、色鮮やかな「彩牋」(装飾料紙)に書かれた格調高い書跡により、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。

和漢朗詠集とは ― 千年愛された詩歌のアンソロジー

『和漢朗詠集』は、長和2年(1013年)頃に成立したとされる詩歌集です。編者の藤原公任は、当代きっての文化人として知られ、百人一首にも歌が選ばれた歌人でもありました。この詞華集には、中国の詩人・白居易(白楽天)をはじめとする漢詩588首と、紀貫之・凡河内躬恒らによる和歌216首が収められています。

上巻には四季の詩歌が、下巻には天象・動植物・人事にまつわる雑題が配置され、全114項目にわたって分類されています。朗詠のテキストとしてだけでなく、詩作や書道の手本としても広く愛好され、『源氏物語』や『枕草子』など、平安文学の至宝にも深い影響を与えました。寺子屋でも読み書きの教科書として長く用いられるなど、日本の文化史において計り知れない役割を果たした作品です。

彩牋の美 ― 紙そのものが芸術作品

この国宝を特別なものにしているのは、何よりもその「彩牋」(さいせん)と呼ばれる装飾料紙の美しさです。色とりどりの唐紙(からかみ)を繋ぎ合わせた巻物は、紅・藍・黄・茶など多彩な色合いの紙に、雲母(きら)で花唐草文様などが摺り出されています。巻物を開くたびに、光の加減で文様がほのかに輝き、見る者を平安時代の華やかな宮廷世界へと誘います。

平安貴族にとって、書かれる内容と同じくらい、その媒体である料紙の美しさも重要でした。紙選びそのものが審美眼の表れであり、文字と装飾が一体となって初めて完成する書の世界観は、平安文化の本質を体現しています。

書の魅力 ― 三跡・藤原行成の系譜

倭漢抄下巻の書は、伝統的に「三跡」の一人である藤原行成(972〜1027)の筆と伝えられています。行成は、小野道風・藤原佐理とともに平安書道の三大名筆家に数えられ、和様書道の大成者として「世尊寺流」の祖とも称される人物です。

この写本では、漢詩が行書を中心とした書体で記され、和歌は優美な仮名文字で綴られています。一つの作品の中で漢字と仮名という二つの書体が共存する姿は、和漢朗詠集の根本理念である「和」と「漢」の融合そのものを視覚的に表現しています。

書風の研究からは、「高野切第三種」「粘葉本和漢朗詠集」「伊予切」「法輪寺切」「蓬莱切」など、同筆または同系統とされる作品群との関連が指摘されており、11世紀半ばの書写と推定されています。端正でありながら温雅さを湛えたその筆致は、平安古筆の中でも最高水準の一つとして高く評価されています。

国宝に指定された理由

倭漢抄下巻(彩牋)が国宝に指定された背景には、以下のような文化的価値が認められています。

  • 日本文学史上最も重要な詩歌集の一つである和漢朗詠集の、平安時代に遡る極めて貴重な古写本であること。
  • 彩牋(装飾料紙)の品質が、平安時代の紙漉きと装飾技術の最高水準を示していること。
  • 三跡に連なる書風による卓越した書跡が、日本書道史の研究において不可欠な資料であること。
  • 近衛家の旧蔵品として千年近くにわたり伝世してきた、来歴の確かな文化遺産であること。

陽明文庫 ― 近衛家が守る千年の至宝

陽明文庫は、昭和13年(1938年)に近衛家第29代当主であり内閣総理大臣を務めた近衛文麿によって設立されました。近衛家は、藤原鎌足を遠祖とし、平安時代に栄華を極めた藤原道長の系譜に連なる名門で、摂関家五家(五摂家)の筆頭として千年以上の歴史を誇ります。

「陽明」の名は、かつて近衛家の邸宅が大内裏の陽明門から延びる近衛大路沿いにあったことに由来します。現在、陽明文庫には国宝8件、重要文化財約60件を含む約20万点の史料が収蔵されており、藤原道長自筆の日記『御堂関白記』(ユネスコ「世界の記憶」登録)をはじめとする第一級の歴史資料の宝庫となっています。

原則として一般公開はされておらず、研究者向けの閲覧制度を設けていますが、20名以上の団体であれば予約制で見学が可能です(3月中旬および9月からそれぞれ3カ月間の予約受付)。また、京都文化博物館で毎年秋に開催される「陽明文庫の名宝展」では、所蔵する国宝や重要文化財が交替で展示されます。

鑑賞の機会

倭漢抄下巻(彩牋)は常設展示されていないため、鑑賞には展覧会情報の確認が欠かせません。

  • 京都文化博物館:毎年秋に開催される「陽明文庫の名宝展」にて、国宝・重要文化財が交替で公開されます。ただし、倭漢抄の出品頻度は高くないため、事前の展示リスト確認が重要です。
  • 国立博物館の特別展:京都国立博物館や東京国立博物館で開催される特別展に出品されることがあります。2012年の「陽明文庫名宝展」(京都国立博物館)、2020年の筆の里工房「陽明文庫展」などで公開実績があります。
  • 陽明文庫への団体見学:20名以上の団体は予約制で見学が可能です。所定の期間に予約を申し込んでください。

周辺の見どころ

陽明文庫が位置する京都市右京区は、名刹や名庭が集まる文化の宝庫です。

  • 仁和寺(世界遺産):仁和4年(888年)に創建された真言宗御室派の総本山。国宝の金堂、五重塔、そして4月中旬に見頃を迎える「御室桜」で知られています。
  • 龍安寺(世界遺産):世界的に有名な枯山水の石庭がある禅寺。徒歩圏内に位置しています。
  • 妙心寺:日本最大級の禅寺複合体。美しい塔頭寺院が点在しています。
  • 金閣寺(鹿苑寺):金箔に輝く舎利殿で世界的に知られる名刹。バスで東へすぐの距離です。
  • 北野天満宮:学問の神・菅原道真を祀る神社。道真は和漢朗詠集にも多くの漢詩が収められた詩人でもあります。

Q&A

Q倭漢抄下巻(彩牋)とは何ですか?
A平安時代中期に藤原公任が編纂した『和漢朗詠集』の下巻を書写した国宝の写本です。色鮮やかな装飾料紙(彩牋)に書かれた2巻の巻物で、11世紀半ば頃の書写と推定されています。近衛家に伝来し、現在は京都の陽明文庫が所蔵しています。
Q一般の方でも鑑賞できますか?
A陽明文庫は原則として一般公開されていませんが、20名以上の団体であれば予約制で見学が可能です。また、京都文化博物館の秋の展覧会や国立博物館の特別展で公開されることがありますので、展覧会情報をご確認ください。
Q「彩牋(さいせん)」とは何ですか?
A彩牋とは、色彩豊かに装飾された料紙のことです。この国宝では、紅・藍・黄・茶など多彩な色の唐紙(からかみ)を繋ぎ合わせ、雲母(きら)で花唐草文様を摺り出した華麗な料紙が使用されています。平安時代の紙漉き・装飾技術の最高水準を示すものです。
Q誰が書いたものですか?
A伝統的には「三跡」の一人・藤原行成の筆と伝えられていますが、確定はしていません。書風の研究から「高野切第三種」「粘葉本和漢朗詠集」などの作品と同筆または同系統とされ、11世紀半ばの優れた能書家による書写と考えられています。
Q陽明文庫へのアクセスは?
A京都駅から京都市営バスまたはJRバスの栂尾方面行きに乗車し、「福王子」バス停で下車、徒歩数分です。世界遺産の仁和寺のすぐ西側に位置しています。

基本情報

指定名称 倭漢抄下巻(彩牋)
ふりがな わかんしょうげかん(さいせん)
種別 国宝(書跡・典籍)
指定日 1951年(昭和26年)6月9日
時代 平安時代(11世紀半ば頃)
員数 2巻
原編者 藤原公任(966〜1041)
伝称筆者 藤原行成(972〜1027)
所有者 公益財団法人 陽明文庫
所在地 京都府京都市右京区宇多野上ノ谷町1-2
アクセス 京都駅より京都市営バス・JRバス栂尾方面行き「福王子」下車徒歩数分
公開状況 原則非公開(20名以上の団体は予約制で見学可能)。京都文化博物館等の展覧会で不定期公開。
台帳・管理ID 201-586 / 指定番号 00042-00

参考文献

WANDER 国宝 — 倭漢抄 下巻(陽明文庫/京都)
https://wanderkokuho.com/201-00586/
Wikipedia — 和漢朗詠集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86
Wikipedia — 陽明文庫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E6%96%87%E5%BA%AB
京都ミュージアム探訪 — 陽明文庫
https://www.kyoto-museums.jp/museum/west/80/
文化遺産オンライン — 和漢朗詠集(唐紙)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/546117
国宝を巡る旅 — 仁和寺・陽明文庫
https://kokuho.tabibun.net/4/26/2623/
京都府観光連盟 — 公益財団法人陽明文庫
https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/3681
大阪教材社 — 粘葉本和漢朗詠集(伝 藤原行成)
https://www.osakakyouzai.com/osaka_kyouzai/?p=621

最終更新日: 2026.03.21