京都・大原野の山裾に座す国宝菩薩像

京都市の西のはずれ、市街地が途切れて大原野の山並みへと続くあたりに、宝菩提院願徳寺という小さな寺がある。その本堂の厨子に納まるのが、像高およそ88.2センチ、一材から彫り出された木造の菩薩半跏像である。右の足首を左の腿に上げ、左足を軽く踏み下げた半跏の姿勢をとり、今にも立ち上がろうとするかのような構えを見せる。日本の美術品に与えられる最高位、国宝に指定された一軀だ。

寺伝はこの像を如意輪観音と呼ぶ。ところが、間近で眺めるほどにその呼び名は揺らいでいく。像が何を表すのかという問いは、百年を超えて研究者を引きつけてきた。

名を一つに定めがたい姿

如意輪観音といえば、ふつうは六本の腕を持ち、それぞれに救済の働きを示す持物を執る。だがこの像の腕は二本きりである。この一点が、像の正体をめぐる議論を今も開いたままにしている。聖観音と見る説、月光菩薩や虚空蔵菩薩とする説があり、当初から独尊であったのか、三尊のうちの一軀であったのかも定まっていない。

手の印相は、それ自体が静かな説法になっている。左手は施無畏印を結び、恐れを捨てよと説く。右手は掌を外へ向けた与願印で、願いを聞き届ける意を示す。苦しみからの解放と、現世の願いへの応え。仏教が人々のささやかな祈りと出会う、その二つの面がここに重ねられている。

彫りそのものも、ゆっくり見るに値する。用材は長くヒノキと考えられてきたが、近年の調査でカヤと判明した。漆と金箔で覆わず、木肌を生かして蘇芳の淡い赤みをかける檀像の手法による。内刳りはほとんど施さず、左の前腕の半ばから先と右足先の後補を除けば、ほぼ一材から彫り起こされている。眉間の白毫には水晶をはめ、瞳には黒い石を嵌入する。半ば伏せた眼はかすかで水平な視線を保ち、衣文は体の上で向きを変えながら流れていく。

国宝とされる理由

この像はまず明治42年(1909年)4月5日に重要文化財(当時の国宝)として保護を受け、昭和32年(1957年)2月19日に国宝へ指定し直された。文化庁のデータベースは制作時期を平安時代(794〜1185年)とのみ記すが、様式の上から平安前期に置く見方が多い。

この像を際立たせているのは、平安前期の彫刻のなかでも珍しい気品と、確かな写実味である。二重まぶたの切れ長な眼や面立ちは中国・唐代の彫刻を思わせ、ここから二つの説が長く論じられてきた。大陸から渡来した像とする説と、渡来系の工人が日本で刻んだとする説である。いずれも確証はなく、寺は両論をそのまま示している。滋賀・渡岸寺(向源寺)の十一面観音と並べ、この種の像で最も美しい二軀と称されることも多い。その評価が、作品の格をよく表している。

像を守る寺の歩み

願徳寺は天台宗に属し、正式には仏華林山宝菩提院願徳寺と称する。寺伝では白鳳8年(679年)、後の持統天皇の発願により、現在の向日市寺戸の地に開かれたという。当時は一辺およそ一キロメートルに及ぶ伽藍を構え、天台密教の修法を行う大寺院であったと伝わる。平成15年(2003年)には旧地の発掘で九世紀以前の湯屋の遺構が見つかり、その規模についての寺伝に裏づけが与えられた。

平安時代後期には、平教盛の子である僧・忠快が入寺し、密教の拠点として再興した。だが戦火がそれを覆す。十五世紀後半の応仁の乱と織田信長の兵火により、堂宇はことごとく焼け落ちた。江戸時代には徳川家康の保護を受けたものの、往時の規模には戻らず、近代に入ってさらに荒廃が進んだ。

諸像にも、近年まで流転の歴史があった。昭和37年(1962年)までに本尊をはじめとする仏像は隣接する勝持寺へ移されて保管され、昭和48年(1973年)に現在の大原野の地へ本堂が建てられ、平成8年(1996年)に国宝像が帰座した。願徳寺は今、拝観できる寺としては京都で最も小さいと称し、鉄筋コンクリートの本堂一棟と小さな庭からなる。洛西観音霊場の第三十三番札所でもある。本尊のほかにも、平安後期の薬師如来立像や、弘安8年(1285年)に湛康・慶秀が刻んだ金剛力士像など、複数の指定品を蔵している。

拝観と周辺の見どころ

願徳寺へ着くには、ある程度の覚悟がいる。それもまた、この寺らしさである。門前に駅はない。多くの人は東向日駅や向日町駅からバスで南春日町まで行き、そこから西へ二十分ほど坂を上る。桂川側から洛西高校付近で降り、田の道を長く歩く経路もある。車であれば京都縦貫自動車道の大原野インターチェンジから五分ほどだ。山門はふだん閉じている。脇のインターホンを押して拝観の旨を告げると、住職が中へ通し、多くの場合は像の説明もしてくれる。

本尊の撮影はできない。そのかわり、訪れる人の少ない堂内で、静かに像と向き合う時間が得られる。寺が像を貸し出したり、法要で閉じたりすることがあるため、拝観できる日かどうかを事前に確かめておくとよい。堂に入ると参拝者自身が灯りをともし、厨子の暗がりから像が浮かび上がる。

周りの大原野一帯は、一日かけて歩く値打ちがある。隣の勝持寺は桜と紅葉で知られ、花の寺と呼ばれる。正法寺や古社の大原野神社も近い。願徳寺の境内の片隅には六世紀のものとみられる石棺が置かれ、寺が建つよりはるか前から、この丘に人が暮らし葬られてきたことを思わせる。

Q&A

Qこの像は本当に如意輪観音ですか。
A寺伝の名であり、国宝の指定名称も如意輪観音ですが、確定はしていません。如意輪観音は通例六臂で表されるのに対し、この像は二臂のため、聖観音、月光菩薩、虚空蔵菩薩とする説もあります。寺はこの問いを定めずに示しています。
Q仏像の写真は撮れますか。
A本尊の撮影はできません。堂内で実物を拝観する形になり、多くの場合は住職が像の説明をしてくれます。
Q公共交通機関での行き方は。
A東向日駅または向日町駅からバスで南春日町まで行き、西へ二十分ほど坂を上ります。バスの本数は少ないため、出発前に時刻を確かめてください。途中に勾配のある区間があります。
Q拝観に予約は必要ですか。
A通常は山門脇のインターホンを押せば拝観できます。法要や展覧会への貸し出しで閉じることがあるため、出かける前に拝観できる日かどうかを確かめておくと安心です。
Q周辺の見どころは。
A隣の勝持寺は桜と紅葉で知られ、正法寺や大原野神社も近くにあります。大原野一帯は徒歩で半日から一日かけて巡るのに向いています。

基本情報

名称木造菩薩半跏像〈(伝如意輪観音)/(本堂安置)〉
区分国宝(彫刻)
員数1躯
時代平安時代(794〜1185年)
像高約88.2センチ
用材・技法カヤの一木造、檀像系
重要文化財指定明治42年(1909年)4月5日
国宝指定昭和32年(1957年)2月19日
所有・所在地宝菩提院(願徳寺)/京都府京都市西京区大原野南春日町1223-2
拝観拝観可。山門脇のインターホンで申し出る。撮影不可。事前に拝観可否の確認を推奨。

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/267
京都観光Navi(京都市公式):宝菩提院 願徳寺
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=2154
願徳寺(ウィキペディア日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%98%E5%BE%B3%E5%AF%BA
WANDER 国宝:菩薩半跏像(伝如意輪観音)
https://wanderkokuho.com/201-00267/

最終更新日: 2026.06.08