一本の木から彫り出された平安の千手観音

像高は266センチメートル。両肩から四十本の腕が放射状に広がり、頭上には小さな顔がいくつも連なります。京都・太秦の広隆寺に伝来する木造千手観音立像は、9世紀にヒノキの一木から彫り出された平安時代初期の像です。四十本という腕の数は、観音の名が示す「千」をそのまま彫ったものではありません。一本の手がそれぞれ二十五の世界を救うという古来の考え方にもとづき、四十に二十五を掛けて千という数を表しています。頭部をめぐる十一の顔とあわせ、この像は十一面千手観音という形にあたります。

国宝としての正式な指定名称には「所在講堂」という語が添えられています。これは像が現在置かれている場所ではなく、かつて安置されていた場所を記したものです。本像は長く講堂、地元で「赤堂」と呼ばれる建物の外陣西北隅に立っていました。1982年に新霊宝殿が完成して以降は、境内の奥にあるこの収蔵展示施設に移されています。

国宝に指定された理由

広隆寺には、9世紀に寺の所蔵品を記録した『広隆寺資財交替実録帳』が伝わります。この文書自体も国宝に指定されています。そこには金堂に安置されていた像として、十一面四十手の観世音菩薩で、立高八尺、およそ240センチメートルの檀像が記されています。研究者はこの記載を本像にあたるものと考えており、その場合、造立の時期は平安時代初期の9世紀におよびます。比定の根拠は記録と彫りの様式にあって、年号を記した銘があるわけではありません。そのため確定した事実というより、最も妥当な読み方として受けとめられています。

技法の面でこの像を特徴づけるのは、その構造です。本体はヒノキの一材から彫り出されており、これは平安時代初期に主流であった一木造の手法です。やがて工房は、複数の材を組み合わせて像を作る寄木造へと移っていきます。一木造は表面に密度のある一続きの質感を生み、像の大きさには制約が生じます。それだけに、この高さの立像を一材から彫り起こすことは、相応の技量を要する仕事でした。寺の記録は原像を檀像、すなわち大陸の仏教美術で珍重された白檀の像として記しますが、ここで用いられたヒノキは、日本では入手しにくい白檀に代わる材として、その伝統にならって彫られたものと考えられます。

本像は1904年に旧来の制度のもとでまず国宝に指定され、戦後の枠組みが文化財の最高位を定め直した1953年に、現行法のもとで改めて国宝に指定されました。千手観音は、その多くの腕によって、苦しむすべての者へ同時に手を差し伸べるという誓いをあらわす観音の姿です。それぞれの手には法具を執り、あるいは救いの印を結びます。

霊宝殿での見どころ

霊宝殿のなかで、本像は寺でもっとも大きな像のひとつとして立っています。室内では、国宝指定第一号として知られる弥勒菩薩半跏像と向かい合う位置に、背の高い三体の像が並びます。本稿の千手観音立像はその向かって右に位置し、表情はおごそかで落ち着いています。平安初期彫刻のなかでも、引きしまった顔立ちを見せる一例です。

その傍らには、3メートルを超える不空羂索観音が立ちます。こちらも国宝で、かつては講堂でこの像と同じ堂内にありました。二体のあいだには、もう一体の千手観音、1012年の銘を持つ坐像が据えられています。この坐像は複数の材を寄せて作られた初期の寄木造の作例で、二体の千手観音を並べて見ると、およそ二世紀のあいだに彫像の技法が移り変わっていった様子が読み取れます。立像のほうが古く、一本の木から彫られています。坐像のほうが新しく、材を組み合わせて作られています。

腕の構成にも目をとめてみてください。中央の二本の手は胸の前で合わさり、残りの腕がその背後に幾重にも広がります。本来はそれぞれが持ち物を執っていました。年月のあいだに小さな手のいくつかは傷み、かつて表面を覆っていた金箔や彩色も多くは失われています。そのぶん、木の地肌や彫り跡が、造像当初よりもよく見えています。本面の上に並ぶ顔は小さく、引きしまった表情をしており、離れて見ると見落としがちです。近づいて確かめる価値があります。

広隆寺と太秦をめぐる

広隆寺は京都最古の寺院で、7世紀初めに渡来系の氏族である秦氏によって創建されました。この一帯の初期の富の多くを担った一族です。秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それを安置するために最初の堂を建てたと伝わります。千手観音立像が立つ霊宝殿には、宝冠をいただく穏やかな弥勒像といわゆる泣き弥勒の二体の弥勒菩薩半跏像、そして木造のものとしては最古級に数えられる十二神将立像もあわせて納められています。

講堂、すなわち赤堂は、参道を進む途中で目にすることができます。1165年に再建されたもので、京都市内に残る数少ない平安時代の建築のひとつです。扉口からは堂内の阿弥陀如来坐像と脇侍の菩薩を望めますが、内部に立ち入ることはできません。境内は東映太秦映画村に隣接しており、古代の寺院と京都でも新しい部類の観光地とが、この界隈で隣り合っています。

寺へのアクセスは分かりやすいものです。嵐電嵐山本線の太秦広隆寺駅が山門のすぐ前にあり、JR嵯峨野線の太秦駅からは歩いて10分ほどです。境内への参拝は無料で、霊宝殿は別に大人800円ほどの拝観料がかかります。拝観時間は年間の多くの期間で午前9時から午後5時まで、12月から2月は30分早く閉まります。訪れる前に最新の情報を確かめておくとよいでしょう。

Q&A

Q本当に腕が千本あるのですか。
Aいいえ。腕は四十本で、日本の彫像では千を表す標準的な形です。四十の手がそれぞれ二十五の世界を救うとされ、掛け合わせて千になります。頭は十一面で、十一面千手観音の形にあたります。
Q霊宝殿にあるのに、なぜ指定名に「所在講堂」とあるのですか。
A指定された当時の安置場所を記したものです。本像は長く講堂、別名赤堂に置かれ、1982年に霊宝殿へ移りました。正式名称には以前の場所が残されています。
Q同じ室内のもう一体の千手観音と、どう見分けますか。
A霊宝殿には千手観音が二体あります。本国宝はヒノキの一木から彫られた立像です。もう一体は1012年の銘を持つ坐像で、材を寄せて作られ、三体の中央に据えられています。
Qいつ作られたのですか。
A寺の古い資財帳と彫りの様式から、平安時代初期の9世紀とされています。年号を記した銘はないため、年代は研究上の推定であって、確定した事実ではありません。
Q写真撮影はできますか。
A展示されている霊宝殿の内部は、通常は撮影できません。掲示された規則と、拝観時の係員の案内に従ってください。

基本情報

名称木造千手観音立像(所在講堂)
種別彫刻
指定区分国宝(指定番号 00066)
指定年月日1904年2月18日 重要文化財指定/1953年3月31日 国宝指定
員数1躯
時代平安時代初期(9世紀)
像高約266センチメートル
材質・技法ヒノキ一木造
所有者広隆寺
所在地京都市右京区太秦(霊宝殿にて展示)
アクセス嵐電嵐山本線「太秦広隆寺駅」前/JR「太秦駅」から徒歩約10分

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/228
広隆寺(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/広隆寺
WANDER 国宝:千手観音立像(広隆寺)
https://wanderkokuho.com/201-00228/
京都散歩ナビ:広隆寺
https://kyoto-sampo.jp/koryuji/

最終更新日: 2026.06.08