中国で失われ、日本に残った字書

神宮(伊勢神宮)が所蔵する一巻の巻子本に、延喜四年(904年)の年紀をもつ写本がある。中国・梁の顧野王(こやおう)が大同九年(543年)に撰した字書『玉篇』の、第二十二巻にあたる写しである。『玉篇』はもともと三十巻からなり、漢字を偏や旁などの構成要素にもとづいて五百四十二の部に分け、各字に字音と字義、用例を記した。本国の中国では早くに改編が進み、顧野王の原本そのものは宋代までに失われた。撰者の手になる文章を今日読み得るのは、日本に残された零本(れいほん)によってであり、この神宮本もその一つである。

『玉篇』は後漢の『説文解字』の体裁にならいつつ、各字にまず反切で音を示し、続いて義を釈き、しばしば古典籍からの引用を添える。この引用部分には、のちに散逸した書物の文章が含まれることがあり、語学のみならず古典の校勘にも用いられてきた。一巻の字書を読むことが、顧野王という六世紀の学者を介して、それより古い典籍へ遡ることにつながる。

国宝に指定された理由

日本に伝わる『玉篇』の零本のうち、国宝に指定されたものは四件あるとされる。その多くは唐代の中国で書写されて将来されたものだが、この神宮本は日本で書写された一本とされる点に特色がある。巻末の奥書には「延喜四年正月一五日収為典楽頭宅書」とあり、典楽頭(雅楽をつかさどる典楽寮の長官)の宅で書写されたことが記される。年紀をもつ古写本は数が限られ、十世紀初頭という書写年代がほぼ確実にたどれることが、本書の資料的価値を高めている。

さらに注目されるのは紙背である。料紙が貴重だった時代、古い文書の裏面はしばしば再利用された。本書の紙背には、皇太神宮(内宮)の禰宜(ねぎ)の系譜を記した「禰宜譜図帳」が書写されており、伊勢の神職の歴史を知るうえでも一級の史料となっている。この紙背文書の存在は、字書が早く神宮の周辺にもたらされ、保管されてきた経緯をも示している。昭和二十六年(1951年)六月九日、国宝に指定された。

書風と見どころ

本文は端正な楷書で書かれる。見出しの字を大きく立て、その下に音と義を小字で連ねる構成で、大小の文字が交互に続くため、巻を繰るほどに一定の調子が生まれる。第二十二巻は、部首でいえば「山」部のあたりを収める巻にあたり、山にかかわる漢字がまとまって並ぶ。部首順に編まれた字書であればこそ、関連する字が連なって現れる様子をたどることができる。

原本を実見できる機会は限られる。神宮は本書を神宮文庫に収め、公開はまれである。これまでに展示された際も、神宮徴古館での特別公開や、伊勢の宝物を主題とする展覧会への出陳といった例にとどまる。実物を見たい場合は、その時々の展示内容を事前に確かめ、機会があれば見ておきたい一品と考えるのがよい。

神宮徴古館と周辺

神宮徴古館は内宮と外宮のほぼ中間、伊勢市神田久志本町に建つ。明治四十二年(1909年)に開館した、日本で最初の私立博物館である。設計は宮廷建築を手がけた片山東熊で、ルネサンス様式の外観も見どころの一つとなっている。館内には、二十年に一度の式年遷宮で調進される御装束神宝のほか、歴史・考古・美術工芸の資料が並び、一巻の写本を伊勢の祭祀の歴史のなかに置きなおして眺めることができる。隣接する神宮農業館、近くの神宮美術館とは共通の入場券がある。

多くの参拝者は、博物館の見学を両宮への参拝とあわせて行う。外宮は伊勢市駅から近く、内宮は宇治橋やおはらい町・おかげ横丁の門前町とともに南に位置する。両駅と博物館、内宮・外宮を結ぶ循環バスを使えば、一日でひととおり巡ることができる。

Q&A

Q『玉篇』とはどのような書物ですか。
A中国・梁の顧野王が大同九年(543年)に撰した漢字の字書です。もとは三十巻からなり、漢字を五百四十二の部に分けて、各字の音と義、用例を記しました。原本は中国で失われ、顧野王の文章はおもに日本に残る古写本を通じて伝わっています。
Q神宮本にはどんな特色がありますか。
A国宝に指定された四件の『玉篇』零本のうち、多くは唐代の中国で書写されたものですが、この一本は日本で書写されたとされます。奥書から延喜四年(904年)に書写されたと分かり、書写年代がほぼ確実にたどれる点でも貴重です。
Q実物を見ることはできますか。
A公開はまれです。通常は神宮文庫に収められ、ごく限られた機会に、おもに神宮徴古館で公開されてきました。実物を見たい場合は、訪れる前にその時々の展示内容を確認してください。
Q紙背には何が書かれているのですか。
A裏面には内宮の禰宜の系譜を記した「禰宜譜図帳」が書写されています。料紙が乏しい時代に紙を再利用したもので、この譜図帳自体が伊勢の神職を知る重要な史料となっています。
Q神宮徴古館へのアクセスを教えてください。
A近鉄・JR伊勢市駅、または近鉄宇治山田駅から循環バスに乗り、「徴古館前」で下車します。所要約十分、そこから徒歩三分です。館は外宮と内宮の中間に位置します。

基本データ

名称玉篇 巻第廿二(ぎょくへん まきだいにじゅうに)
指定区分国宝(書跡・典籍)
指定年月日昭和二十六年(1951年)六月九日
書写年代延喜四年(904年)・平安時代
原本の成立大同九年(543年)、顧野王撰(中国・梁)
員数一巻
所有者神宮(伊勢神宮)
保管神宮文庫(三重県伊勢市)。公開はまれ
神宮徴古館開館九時〜十六時三十分(入館は十六時まで)
拝観料大人500円(徴古館・農業館共通)。神宮美術館を含む三館共通券は700円
アクセス近鉄・JR伊勢市駅または近鉄宇治山田駅から循環バス約十分、「徴古館前」下車徒歩三分

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/575
文化遺産オンライン(国立文化財機構)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/197620
伊勢神宮(神宮)公式サイト
https://www.isejingu.or.jp/
神宮徴古館(伊勢市観光協会)
https://ise-kanko.jp/purpose/jinguchokokan/
神宮徴古館・農業館(観光三重)
https://www.kankomie.or.jp/spot/3135

最終更新日: 2026.06.08