松阪木綿と、その手の技

江戸時代の最盛期、人口およそ百万といわれた江戸の町に、年間五十数万反もの縞木綿が運び込まれていたという。少し離れると無地のように見え、近づくと細い縦縞が走る、藍色の落ち着いた布である。その布の名は松阪木綿。けれども、ここで記録の対象になっているのは布そのものではない。布を生み出してきた人の手わざ、紡ぎ、染め、織るという一連のいとなみのほうである。

正式には「松阪木綿の紡織習俗(まつさかもめんのぼうしょくしゅうぞく)」という。国は昭和五十六年(一九八一年)十二月に、これを「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選定した。重要無形民俗文化財として指定する一歩手前の枠組みで、消えていく前に記録しておくべき生きた習俗を国が選び出すものだ。対象となるのは、織機にかける前の糸を藍で染める工程から、経糸をそろえ、縦縞を織り上げるまでのひとつながりの作業全体に及ぶ。

松阪は、櫛田川と祓川にはさまれた平地に開けた町で、伊勢湾からほど近い内陸にある。木綿が伝わるよりずっと前から、この地は織物の盛んな土地だった。五世紀後半、大陸から渡ってきた織りの技術集団が東部一帯に住みついたと伝わり、市の東に残る神服織機殿(かんはとりはたどの)・神麻続機殿(かんおみはたどの)の二つの機殿では、いまも毎年春と秋に、伊勢神宮へ奉る絹と麻の布が古式どおりに織られている。木綿が入ってきたのはのちの十五世紀。温暖で水はけのよい肥沃な海辺は、綿づくりに必要な条件をちょうど備えていた。

なぜ習俗が記録の対象になったのか

木綿は、庶民の装いそのものを変えた。江戸時代に広まる以前、ふだん着の繊維は麻などの植物繊維が中心で、肌ざわりは粗く、冬には心もとなかった。あたたかく丈夫な木綿が普及すると、伊勢湾沿岸はその一大産地となる。江戸中期の百科事典『和漢三才図会』は、勢州松坂の木綿を国内随一とし、河内・摂津のものをこれに次ぐと記した。評価を支えたのは土地の条件である。穏やかな気候、水はけのよい土壌、そして肥料となる干鰯(ほしか)を海辺から得られたことが大きい。

松阪木綿を他と分けたのは、なんといっても縞だ。先に糸を藍で染め、染めた糸と地の糸を組み合わせて細い縦縞に織り上げる。これを松阪縞(まつさかじま)と呼ぶ。藍甕にひたす回数で色の濃淡が決まるため、同じ染料からほとんど無限といってよいほどの柄が引き出せた。華美な衣服が倹約令で禁じられた時代に、控えめな縞は、決まりの内側でさりげなく装うための工夫となり、江戸の「粋」の感覚と重なっていった。その結びつきは深く、歌舞伎の世界では縞木綿の着物を着ることをいまも「マツサカを着る」と言いならわす。

昭和五十六年に紡織の習俗を記録の対象としたとき、国は、この一切を支える知恵がモノではなく人に宿っていることを認めたことになる。文化庁はのちに調査の成果を、三重県の紡織習俗をあつかった平成二十年(二〇〇八年)刊行の記録集にまとめた。保護団体は特定されていない。それは、技が一つの組織ではなく、現役の手織りセンターや製織を担う会社、そして長く続く手織りの会といった複数の担い手によって受け継がれてきた実情を映している。

見どころ:藍、糸、そして機

習俗を理解するのにいちばんよい場所は、機の前である。織りに入る前の糸をよく見ると、布の表情の理由が見えてくる。藍は空気に触れて発色する。甕から引き上げたばかりの糸はくすんだ黄緑色をしていて、酸化するにつれて青く変わり、漬ける回数を重ねるほど濃い色になる。縞を仕立てる織り手は、つまり、濃淡のついた青と白の糸を、決まった順に経糸へ並べていく作業をしているわけだ。

もっとも古い柄は、もっとも単純でもある。ごく細い線を並べた千筋(せんすじ)・万筋(まんすじ)と呼ばれる柄は、東南アジアから海路で渡ってきた柳条布に由来するといわれる。日本語の「縞(しま)」という語も、島づたいに渡来した舶来の布に結びつけて説明されることが多い。数歩離れれば、千筋の反物はほぼ無地の穏やかな色に見え、近づいてはじめて線の構造が立ちあらわれる。この遠目と近目の差こそが、松阪木綿の美意識の核にある。

訪れる人は、自分で機に向かうこともできる。松阪もめん手織りセンターでは機織り体験ができ、コースタほどの小物を織る約一時間のコースから、一メートルほどの反物を織り上げる四〜五時間の「一日織姫」コースまでが用意されている。いずれも事前の予約が必要だ。織らない場合でも、館内では昔ながらの織機が動いており、杼の規則正しい音が見学の一部になっている。

センターの周辺

センターが建つのは、かつての松阪商人の町の一角、三井家ゆかりの土地である。三井家は松阪に根をもち、のちに日本有数の商家へと成長した。あたりは歩いて回れる広さで、半日を過ごすに足る。すぐ近くには松坂城跡の石垣がある。築いたのは武将で茶人でもあった蒲生氏郷で、天正十六年(一五八八年)に城下町を開き、のちに松阪木綿を江戸へ送り出す商人層の土台をつくった人物だ。少し足をのばせば、豪商長谷川家の旧宅(国の重要文化財)や、国学者本居宣長の旧宅跡もある。

センターは松阪市産業振興センターの一階に入っており、松阪駅からは徒歩でおよそ十分、あるいはバスで数分の距離にある。松阪駅はJR東海と近鉄の双方が乗り入れ、名古屋から一時間半ほどで着く。車なら伊勢自動車道の松阪インターから十五分前後で、無料の駐車場がある。なお、伊勢神宮へ布を奉る二つの機殿は市の東部にあるが、神事の場である神域であり、観光のために自由に立ち入れる施設ではない。

Q&A

Qこの文化財は、見学できる布や建物なのですか。
Aどちらでもありません。記録の対象は無形の習俗、すなわち松阪木綿を紡ぎ、染め、織るための技と慣わしです。実際に触れるなら、松阪もめん手織りセンターで手織りを見学したり体験したりするのがいちばん近道です。
Q自分で機織りを体験できますか。予約は必要ですか。
Aできます。センターでは有料の体験があり、約一時間のコースから半日かけての「一日織姫」コースまであります。いずれも事前予約が必要なので、訪問前に申し込んでおくのが確実です。
Q松阪木綿は、ほかの縞の布とどこが違うのですか。
A糸を織る前に藍で先染めし、漬ける回数で青の濃淡を出す点です。濃淡のついた糸を並べることで、遠目には無地に近く見える細い縦縞が生まれます。これが、江戸の人々が粋として好んだ味わいでした。
Qなぜ江戸時代の江戸で、それほど人気だったのですか。
Aあたたかく丈夫で値段も手ごろなうえ、控えめな縞が、華美を禁じる倹約令の下でも洒落た装いを可能にしたからです。年に数十万反が江戸へ運ばれたという記録も残っています。
Q松阪駅から手織りセンターへはどう行けばよいですか。
A松阪駅から徒歩でおよそ十分、またはバスで数分です。松阪駅はJR東海と近鉄が乗り入れています。車の場合は松阪インターから十五分前後で、無料の駐車場があります。

基本データ

名称松阪木綿の紡織習俗(まつさかもめんのぼうしょくしゅうぞく)
区分記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(指定の一歩手前の国の枠組み)
選定年月日昭和五十六年(一九八一年)十二月二十四日
選定文化庁
保護団体特定せず
地域三重県松阪市周辺
記録『紡織習俗Ⅲ(三重県)』無形の民俗文化財記録第五十三集(文化庁・平成二十年)
体験できる場所松阪もめん手織りセンター(三重県松阪市本町2176 松阪市産業振興センター1階)
営業時間・休9時〜17時、火曜休(体験は要予約)
アクセス松阪駅(JR東海・近鉄)から徒歩約10分/伊勢自動車道松阪ICから車で約15分、無料駐車場あり

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/312/404
文化遺産オンライン「松阪木綿の紡織習俗」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159628
松阪市「松阪もめんとは」
https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/matsusakamomentoha.html
松阪もめん手織りセンター「松阪もめんとは」
https://matsusakamomen.com/history
松阪もめん手織りセンター「交通アクセス」
https://matsusakamomen.com/access

最終更新日: 2026.06.03