参道の入口に架かる石橋

五百禩神社石橋及び石垣(いおしじんじゃいしばしおよびいしがき)は、宮崎県日南市大字楠原字寺の脇にある明治前期の石造構造物で、平成22年(2010年)9月10日に国の登録有形文化財となった。石橋は橋長4.1メートル、幅員4.2メートルの石造桁橋、石垣は延長43メートルを測る。社名は「五百祀神社」とも表記される。

まず寸法に目をとめたい。橋長より幅員のほうが大きい。この一点が用途を語っている。川を渡すための橋ではなく、堀割を越えて参道を通すための橋であり、列を崩さずに人が渡れるだけの幅が要求された。

橋が架かるのは石塀から東へ入った位置。桁は太鼓状にわずかな反りをもち、その上に十本の石材を渡して床とする。両側には低い欄干。中央には橋脚が一基立つ。用いられている石材は地元産の飫肥石で、加工しやすい石質から日南一帯の石造物に広く使われてきた。

寺から神社へ ― 明治五年の断絶

この石の下にある土地は、明治5年(1872年)に性格を変えている。それまでここに建っていたのは報恩寺。飫肥藩初代藩主・伊東祐兵、諡して報恩公のために建立された寺で、江戸時代を通じて飫肥三大寺の一つに数えられ、寺禄百石を有する伊東家の菩提寺だった。

明治維新後の廃仏毀釈により、報恩寺は廃寺となる。その跡地に建てられたのが五百禩神社で、本殿の完成は明治9年(1876年)4月9日。祭神は大山津見神と、伊東家祖先累代の神霊である。明治37年(1904年)には幣殿と渡殿が改築された。

社名の由来は一考に値する。伊東祐持が西都の都於郡に城を構えてから、最後の藩主・伊東祐相の代まで535年。ここから500年祀るという意で祐相が名づけたと言われている。藩が消滅するその時期に、自家の続いた年数をそのまま社号に刻んだことになる。

なお年代について。文化庁のデータベースは石橋と石垣を明治前期、西暦では1868年から1881年の範囲としており、神社の創建期に近い。一方、日南市の文化財情報は同じ物件の年代を「近世」と記す。この食い違いは公表資料上、解消されていない。

橋の先にひろがる旧報恩寺庭園

石橋を渡ると地面は上りに転じ、旧報恩寺の庭園に入る。山の斜面に三連の石橋を架ける意匠をもち、その珍しさから日本の庭園史でも注目されてきた。大正期に飫肥で活躍した庭師・田嶋万之助が手を入れたと伝わる。

平成22年9月10日には、本殿・拝殿・石塀、そして石橋及び石垣(1件として扱われる)の5件が同時に登録された。登録対象の石橋は前述の参道入口の橋であって、庭園斜面の三連の石橋はこれに含まれない。

本殿の背後には伊東家累代墓地があり、ポーツマス条約の交渉にあたった飫肥出身の外交官・小村寿太郎の墓もここにある。隣接する台地には西南戦争戦没者の墓地が置かれている。

石積みを近くで見る

石垣は堀割の土留めとして築かれている。積み方は切石間知積、すなわち整形した石を斜めに落とし込む間知積で、高さ0.7メートル、延長43メートルにわたる。近寄って見た人がまず口にするのは、石と石のあいだに隙間がほとんどないことである。

橋のほうも同じ距離まで寄って見たい。床を構成する十本の石材は堀割の底から見上げるとよく分かり、欄干は手すりというより縁の立ち上がりに近い低さで納まっている。飫肥石は経年で温かみのある灰色に変わり、苔をよく載せる。硬い花崗岩では百五十年かかっても得られない表情がここにはある。

境内にはキショウブがおよそ100株植えられている。30年以上前からのもので、5月頃に参道沿いで咲く。例大祭は7月26日とされるが、7月第2日曜との情報もあるため、日程に合わせて訪ねるなら事前確認をおすすめする。

訪ねるにあたって

五百禩神社は、重要伝統的建造物群保存地区に選定された飫肥の武家町から少し離れた山ぎわに鎮座する。JR日南線の飫肥駅からは徒歩約20分。駅にレンタサイクルがあり、これを使えばかなり短縮できる。宮崎市内および日南市内からの路線バスは「飫肥」バス停が最寄りで、そこから徒歩6分ほど。飫肥城からは車で5分程度である。

境内は開放されており、拝観料も拝観時間の定めもない。受付や常駐の社務所はないため、石橋と石垣は日中であればいつでも見ることができる。撮影に制限はないが、現に祭祀が行われている神社であり、背後には墓地がある。祭事の最中や墓所の周辺では控えめに構えたい。

問い合わせは現地ではなく田ノ上八幡神社が受けている。飫肥は城門や武家屋敷、小村記念館などが駅から歩ける範囲にまとまっているので、一日の行程はこの町を軸に組み立てるとよい。

Q&A

Q五百禩神社の石橋は渡ることができますか。
A渡れます。石橋は参道の一部で、境内は拝観料も時間の定めもなく開放されています。受付や常駐の社務所はなく、問い合わせは田ノ上八幡神社が受け付けています。祭祀の場であり墓地も隣接しますので、静かに参拝してください。
Q五百禩神社へは飫肥駅からどう行けばよいですか。
AJR日南線の飫肥駅から徒歩約20分です。駅にレンタサイクルがあり、利用すれば所要時間は短くなります。路線バスの場合は「飫肥」バス停から徒歩6分ほど、飫肥城からは車で5分程度です。
Q五百禩神社石橋及び石垣の寸法と構造は。
A石橋は橋長4.1メートル、幅員4.2メートルの石造桁橋で、中央に橋脚を設け、太鼓状の桁に十本の石材を渡し、両側に低い欄干を置きます。石垣は切石間知積で延長43メートル、高さ0.7メートル。いずれも地元産の飫肥石を用いています。
Q五百禩神社はなぜ寺の跡地に建っているのですか。
A飫肥藩伊東家の菩提寺だった報恩寺が明治5年(1872年)の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地に創建されたためです。本殿の完成は明治9年4月9日。参道前の庭園は寺の時代からのもので、旧報恩寺庭園として知られています。
Q五百禩神社では石橋及び石垣のほかに何が登録されていますか。
A本殿・拝殿・石塀の3件が、石橋及び石垣(1件として扱う)とあわせて平成22年9月10日に登録されています。庭園斜面に架かる三連の石橋は別の遺構で、この登録には含まれません。

基本情報

名称五百禩神社石橋及び石垣(いおしじんじゃいしばしおよびいしがき)
所在地宮崎県日南市大字楠原字寺の脇1-1他
指定区分登録有形文化財(建造物)/登録番号 45-0070
指定年平成22年(2010年)9月10日登録・同日告示
員数1基
寸法石橋:石造桁橋、橋長4.1メートル、幅員4.2メートル。石垣:石造、延長43メートル、高さ0.7メートル。明治前期(1868年から1881年)
所有者五百禩神社
公開状況境内は常時開放、拝観無料。受付なし。問い合わせは田ノ上八幡神社

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)/五百禩神社石橋及び石垣
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00008390
文化遺産オンライン/五百禩神社石橋及び石垣
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198352
日南市文化遺産ミュージアム/五百祀神社石橋及び石垣
https://www.city.nichinan.lg.jp/museum/tourokubunnkazai/kennzoubutsu_sekizoubutsu/5/3952.html
日南市文化遺産ミュージアム/五百祀神社本殿
https://www.city.nichinan.lg.jp/museum/tourokubunnkazai/kennzoubutsu_sekizoubutsu/5/3949.html
日南市文化遺産ミュージアム/五百祀神社
https://www.city.nichinan.lg.jp/museum/mishiteibunnkazai/jinnja_bukkaku/5/3979.html

最終更新日: 2026.08.06