諏訪湖畔に伝わる一幅の国宝

後ろ手を組み、わずかに顔を上げて、画面の外の何かを見つめる人物。蓬髪は濃い墨の塊として描かれ、足元の草履にも同じ強い墨が置かれています。中国唐代の伝説的詩人、寒山。これを描いたのは、画面隅に捺された「可翁」の印でしか知られない、14世紀日本の画人です。

正式名称は紙本墨画寒山図〈可翁筆〉。昭和27年(1952年)11月22日に国宝に指定された一幅の掛軸で、長野県諏訪市の諏訪湖畔に建つサンリツ服部美術館が所蔵しています。日本における水墨画の黎明期を代表する作品でありながら、長く個人の手元にあって公開の機会がほとんどなく、同館での一般初公開は2016年、収集家服部一郎の没後30年を記念した特別企画展「禅宗と茶の湯の美」においてでした。

寒山という画題

寒山は唐代、天台山国清寺の近くに住んだとされる脱俗の人物です。岩や木に詩を書き散らし、寺の厨房で働く拾得と親しく交わったと伝わります。禅宗では寒山を文殊菩薩、拾得を普賢菩薩の化身とみなす伝承があり、ぼろをまとった奇人の姿に悟りの境地を重ねるこの画題は、禅林の画僧たちに繰り返し描かれてきました。

通例、寒山は経巻を手に持つ姿で表されます。しかし本図の寒山は何も持ちません。左斜め後方からとらえた立ち姿が画面いっぱいに配され、視線の先は描かれていない。見る者は、この隠者が何を見ているのかを想像するほかありません。

国宝指定の理由と価値

日本で本格的な水墨画が描かれ始めるのは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてのことです。宋・元の中国に渡った禅僧たちが持ち帰った筆法を消化しながら、日本の画人たちが独自の表現を模索した時期で、如拙や周文ら室町水墨画の大成者が現れる以前のこの段階の遺品は多くありません。本図はその初期水墨画のなかでも屈指の名品と評価され、それが国宝指定の根拠となっています。

注目すべきは墨の使い分けです。最も濃い墨は蓬髪と草履に集中し、人物の上下を引き締めます。衣文は省略の効いた力強い線で一気に描かれ、対する面貌は消え入りそうなほど繊細な細線で表されます。必要最小限の筆致のうちに寒山という人格を活写したと評され、禅林系初期水墨画の優品に数えられてきました。

画面の隅には「可翁」の朱文方印と、「仁賀」と判読されることの多い小印が捺されています。この二つの印こそ、画人について残されたほぼ唯一の手がかりです。元応2年(1320年)に元へ渡り、嘉暦元年(1326年)の帰国後は建仁寺や南禅寺などに歴住して康永4年(1345年)に没した禅僧、可翁宗然にあてる説。一方で「仁賀」の印を重視し、詫磨派の絵仏師「可翁仁賀」を想定する説。約1世紀におよぶ研究をへても決着はついておらず、その正体の不明さもまた本図の魅力の一部となっています。なお、ほぼ同じ図様の寒山図がアメリカのフリーア美術館に所蔵されています。

鑑賞のために

サンリツ服部美術館は1995年、諏訪湖東岸に開館しました。JR中央本線上諏訪駅から徒歩約10分。コレクションの中核を築いたのは、セイコーエプソン初代社長を務めた服部一郎(1932年から1987年)です。本図のほか、本阿弥光悦作の国宝、楽焼白片身変茶碗 銘不二山を所蔵することでも知られ、中世の水墨画、茶道具、さらにルノワールやルドンら西洋近現代絵画まで、600点を超える作品を収めています。

訪問にあたって最も重要な点は、本図が常設展示されていないことです。紙本の水墨画は光や湿度に弱く、館では年数回の展示替えによって所蔵品を順次公開しています。寒山図を目当てに訪れる場合は、必ず公式サイトで展覧会情報を確認してください。展示されていない時期でも、茶道具や絵画の企画展は見応えがあり、2階の喫茶室からは諏訪湖を一望できます。開館時間は午前9時30分から午後4時30分、月曜休館(祝日は開館)です。

周辺情報

美術館周辺の湖畔は徒歩での散策に向いています。徒歩2分ほどの北澤美術館はエミール・ガレのガラス工芸コレクションで名高く、湖畔公園には無料の足湯、その先には諏訪湖間欠泉センターがあります。徒歩10分余りの片倉館は昭和3年(1928年)築の洋風浴場建築で、重要文化財に指定された「千人風呂」に今も入浴できます。

諏訪は温泉と信仰の町でもあります。諏訪湖を囲んで上社・下社あわせて四宮が鎮座する諏訪大社、酒蔵の並ぶ旧甲州街道沿いの町並みなど、半日から一日かけて巡る価値があります。上諏訪駅へは新宿から特急あずさで約2時間15分、車では中央自動車道諏訪インターチェンジから約15分、美術館には無料駐車場70台分が用意されています。

Q&A

Q寒山図はいつでも見られますか。
A常設展示はされていません。作品保護のため、公開は企画展への出品時に限られ、数年単位で間隔が空くこともあります。訪問前に必ず美術館公式サイトで展覧会情報をご確認ください。
Q作者の可翁とはどのような人物ですか。
A14世紀前半に活動した画人で、生没年や経歴は不明です。禅僧可翁宗然とする説と、詫磨派の絵仏師可翁仁賀とする説があり、現在も決着していません。
Q美術館へのアクセスを教えてください。
AJR中央本線上諏訪駅から徒歩約10分、中央自動車道諏訪インターチェンジから車で約15分です。無料駐車場があります。
Q館内で写真撮影はできますか。
A展示室内の撮影は原則として認められていません。最新の取り扱いは受付でご確認ください。
Qほかに見ておきたい所蔵品はありますか。
A本阿弥光悦作の国宝、楽焼白片身変茶碗 銘不二山が代表的です。茶の湯をテーマとする企画展などで公開されることがあります。

基本データ

名称紙本墨画寒山図〈可翁筆〉
指定区分国宝(絵画) 昭和27年(1952年)11月22日指定
時代南北朝時代(14世紀)
員数1幅
作者可翁(正体は諸説あり。「可翁」「仁賀」の印を捺す)
所有者公益財団法人サンリツ服部美術館
所在地長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
公開状況常設展示なし。企画展出品時のみ公開
開館時間9:30~16:30 月曜休館(祝日は開館)、年末年始・展示替期間休館
アクセスJR上諏訪駅から徒歩約10分/諏訪ICから車で約15分

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)紙本墨画寒山図〈可翁筆〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/10297
文化遺産オンライン 紙本墨画寒山図〈可翁筆〉
https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/207260
公益財団法人サンリツ服部美術館(公式サイト)
https://sunritz-hattori-museum.or.jp/
インターネットミュージアム「国宝・可翁筆《寒山図》が初公開」(2016年)
https://www.museum.or.jp/news/3854

最終更新日: 2026.06.11