紙に描かれた平安の歌人と出会う 佐竹本三十六歌仙絵「中務」
長野県諏訪市、諏訪湖のほとりに静かに佇むサンリツ服部美術館。ここに、日本絵画史を代表する重要文化財「紙本著色三十六歌仙切〈(中務)/佐竹家伝来〉」が所蔵されています。鎌倉時代に描かれた「佐竹本三十六歌仙絵」の断簡の一葉で、平安時代中期の女流歌人・中務の姿を写した、わずか一幅の掛軸。しかしその一幅には、王朝文化の粋と、近代日本の数奇な運命が、深く静かに刻まれています。
歌仙絵の最高峰「佐竹本三十六歌仙絵」
「三十六歌仙」とは、平安時代中期の歌人・藤原公任(966年〜1041年)が編んだ私撰集『三十六人撰』に選ばれた、飛鳥時代から平安時代中期までの三十六人の優れた歌人のことを指します。柿本人麻呂、紀貫之、小野小町、在原業平など、日本文学史を彩る顔ぶれが揃い、後世にわたって絵画化や書写の対象となりました。
一巻の絵巻が三十七幅の掛軸へ
「佐竹本三十六歌仙絵」は、鎌倉時代13世紀に制作されたもので、もとは上下二巻の絵巻物でした。各歌人の肖像と和歌、そして和歌の神とされる住吉大明神の図を含む全三十七図から構成されており、絵は似絵の名手と讃えられる藤原信実(1176年〜没年不詳)、書は後京極流の祖となった九条良経(1169年〜1206年)の筆と伝えられています。
この絵巻は、もともと京都の下鴨神社に伝わったとされ、江戸時代後期には秋田藩主・佐竹侯爵家の所蔵となります。「佐竹本」の名はここに由来します。大正6年(1917年)に佐竹家が手放したのち、実業家・山本唯三郎が買い受けますが、第一次世界大戦後の不況で再び売却を余儀なくされます。あまりに高額のため一人で買い取れる者がおらず、大正8年(1919年)12月、茶人で実業家の益田鈍翁ら有志が、絵巻を歌人ごとに分割し、くじ引きで譲渡先を決定するという前代未聞の方法をとりました。「絵巻切断」事件として当時の新聞を賑わせたこの出来事を経て、三十七図はそれぞれ独立した掛軸となり、新たな来歴を歩み始めたのです。
女流歌人「中務」とは
本作に描かれているのは、平安時代中期の女流歌人・中務(912年頃〜991年頃)です。中務は宇多天皇の皇子・敦慶親王の娘として生まれました。父・敦慶親王が中務卿の官職にあったことから、この名が付けられたと伝えられています。母は同じく三十六歌仙に名を連ねる女流歌人・伊勢で、まさに王朝歌壇の中心に位置する血筋に育った歌人でした。
『後撰和歌集』をはじめとする勅撰和歌集に多くの歌が採られ、源信明や元良親王、藤原実頼といった名だたる公達との交流でも知られています。佐竹本のこの一幅に書き添えられた和歌は「うぐひすの 声なかりせば 雪消えぬ 山里いかで 春を知らまし」――鶯の声がなければ、雪深い山里はどうやって春の訪れを知ることができようか、という季節の機微を詠んだ繊細な一首です。
なぜ重要文化財に指定されているのか
「佐竹本三十六歌仙絵」は、上畳本三十六歌仙絵巻と並び、現存最古の三十六歌仙絵の遺品として、また鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品として、極めて高い評価を受けています。本作の価値は、おもに次の三点に集約されます。
似絵の精神を歴史上の人物に注ぐ
平安時代末から鎌倉時代にかけて流行した「似絵(にせえ)」は、それまでの理想化された顔貌表現から離れ、個人の容姿を写実的に描き分ける肖像画の手法です。佐竹本の画家は、この似絵の技法を、画家自身は会ったこともない数百年前の歌人たちに当てはめ、それぞれの面貌や所作に物語を読み込んでいきました。京都国立博物館の研究者は、佐竹本を「歌仙の気持ちにまで踏み込んだ歌仙絵」と評しており、単なる顔の描き分けを超えた精神性こそが本作の核心なのです。
王朝文化の美意識を伝える
中務の像は、女官の正装である唐衣に裳をつけた姿で表されています。十二単に通じる重ねの色目、流麗な衣文線、そして傍らに記された和歌の優雅な仮名書き――絵と書、文学と造形が渾然一体となった本作は、平安後期から鎌倉時代にかけての王朝文化の到達点を伝えるものといえます。
近代日本における文化財伝承の象徴
大正8年の「絵巻切断」は、当時においては衝撃的な出来事でしたが、結果としてそれぞれの断簡は各地で大切に守り伝えられ、現在では多くが美術館や博物館で公開可能な状態にあります。サンリツ服部美術館は、本作「中務」と、もう一幅の「大中臣能宣」の二幅を所蔵し、いずれも重要文化財として大切に守り伝えています。
鑑賞のみどころ
サンリツ服部美術館の展示は常設ではなく、年に数回の企画展で約1,400点の収蔵品の中から作品を選び替えています。「中務」の展示機会は限られていますが、対面した際に注目していただきたい点をご紹介します。
抑制された筆致に宿る精神性
面貌を構成するのは、ごくわずかな線です。とりわけ目元の表現は最小限の墨線で描かれていますが、それでいて中務が和歌を口ずさむ瞬間そのものを切り取ったような、深い内省の表情を湛えています。八百年の時を経てなお発色を保つ岩絵具の鮮やかさにも目を凝らしてみてください。
絵に寄り添う流麗な書
図像の傍らには、中務の代表歌「うぐひすの 声なかりせば 雪消えぬ 山里いかで 春を知らまし」が、九条良経の筆と伝わる流麗な仮名で記されています。静かに座る中務の像と、空間を踊るように流れる連綿体の文字。この絵と書の対話そのものが、王朝歌仙絵の本質といえるでしょう。
あわせて鑑賞したい同館の名品
同館にはほかにも、本阿弥光悦作の国宝「楽焼白片身変茶碗 銘不二山」、可翁筆の国宝「紙本墨画寒山図」、そしてもう一幅の佐竹本「大中臣能宣像」など、日本美術史を語るうえで欠かせない名品が収められています。「中務」が展示されていない時期でも、十分にご満足いただけるコレクションです。
アクセスと周辺情報
サンリツ服部美術館は、諏訪湖畔に建つ静かな美術館です。建築は内井昭蔵の設計で、湖を望む喫茶室からの眺めは、鑑賞後のひとときを過ごすのにふさわしい落ち着いた空間です。
交通アクセス
JR中央本線・上諏訪駅から徒歩約15分(約1.3km)。新宿駅から特急「あずさ」で約2時間20分です。上諏訪駅のホームには温泉の足湯があることでも知られており、駅から美術館までの道のりも、湖畔の散策を兼ねた愉しみのある区間となっています。
あわせて訪れたい近隣スポット
美術館のすぐ隣にはエミール・ガレやドーム兄弟のガラス工芸の名品で名高い北澤美術館本館があります。徒歩圏には、大正末から昭和初期に建てられた公衆浴場・社交施設である国の重要文化財「片倉館」があり、千人風呂や會館棟、渡廊下など、当時の意匠をいまも体感することができます。少し足を延ばせば、諏訪信仰の総本社である諏訪大社(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮の四社)にも参拝でき、信州の歴史と文化を一日で味わうことができます。
Q&A
- 「中務」の作品は、いつでも見ることができますか?
- いいえ。サンリツ服部美術館は常設展示を行っておらず、年に数回の企画展ごとに収蔵品を入れ替えて公開しています。また、紙本の作品は光による劣化を防ぐため、展示期間が限られています。鑑賞をご希望の場合は、事前に美術館の公式サイトで展覧会スケジュールをご確認ください。
- 中務とはどのような人物ですか?
- 中務(912年頃〜991年頃)は、平安時代中期の女流歌人で、三十六歌仙の一人です。父は宇多天皇の皇子・敦慶親王、母は同じく三十六歌仙に名を連ねる伊勢という、王朝歌壇の中心に位置する家系に生まれました。『後撰和歌集』など多くの勅撰集にその歌が採られています。
- 「佐竹本」とはどういう意味ですか?
- 「佐竹本」は「佐竹家に伝わった本」という意味で、旧秋田藩(久保田藩)の藩主であった佐竹侯爵家に伝来したことに由来します。江戸時代後期から大正初期まで佐竹家が所蔵していましたが、大正8年(1919年)に絵巻が分割され、それぞれが掛軸装に改められました。
- 館内で写真撮影はできますか?
- 作品や展覧会によって撮影可否が異なります。当日、受付でスタッフにご確認いただくのが確実です。借用作品や保護の観点から、撮影が制限されることもあります。
- サンリツ服部美術館では、ほかにどのような名品が見られますか?
- 国宝として、本阿弥光悦作「楽焼白片身変茶碗 銘不二山」と可翁筆「紙本墨画寒山図」の二件を所蔵しています。重要文化財はおよそ十九件あり、本作と同じ佐竹本の「大中臣能宣像」もそのひとつです。ほかにルノワール、藤田嗣治などの西洋近現代絵画も収蔵しています。
基本情報
| 名称 | 紙本著色三十六歌仙切〈(中務)/佐竹家伝来〉(しほんちゃくしょくさんじゅうろっかせんぎれ なかつかさ さたけけでんらい) |
|---|---|
| 指定種別 | 国指定重要文化財(絵画) |
| 時代 | 鎌倉時代(13世紀) |
| 形状 | 一幅、紙本著色、軸装 |
| 伝承筆者 | 絵:藤原信実筆/書:後京極良経筆 |
| 所有者・所在 | 公益財団法人 サンリツ服部美術館 |
| 住所 | 〒392-0027 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1 |
| アクセス | JR中央本線 上諏訪駅から徒歩約15分(約1.3km) |
| 電話 | 0266-57-3311 |
| 備考 | 常設展示はなく、企画展に応じて公開。鑑賞希望の際は事前に展示予定をご確認ください。 |
参考文献
- 公益財団法人 サンリツ服部美術館 公式サイト
- https://sunritz-hattori-museum.or.jp/
- 公益財団法人 サンリツ服部美術館 コレクション紹介
- https://sunritz-hattori-museum.or.jp/pages/25/
- Wikipedia「佐竹本三十六歌仙絵巻」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/佐竹本三十六歌仙絵巻
- Wikipedia「サンリツ服部美術館」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/サンリツ服部美術館
- Wikipedia「中務」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/中務
- 京都国立博物館 特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」
- https://www.kyohaku.go.jp/jp/special/koremade/36kasen_2019.html
- 美術手帖「100年ぶりの再会。分割された《佐竹本三十六歌仙絵》が過去最大規模で集結」
- https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/19333
- 信州 Museum Guide「サンリツ服部美術館」
- https://www.nagano-museum.com/info/detail.php?fno=127
最終更新日: 2026.04.26