朝鮮国告身:日朝の海をつないだ三通の任命状
九州と朝鮮半島のはざまに浮かぶ国境の島・対馬には、五百年以上の歳月をくぐり抜けてきた三通の大判文書が伝わっています。「朝鮮国告身(ちょうせんこくこくしん)」と呼ばれるこれらの文書は、文明9年(1477)、文明14年(1482)、文亀3年(1503)に朝鮮王朝が発行した官職授与状で、いずれも中世対馬で活躍した豪族・早田(そうだ)氏ゆかりの倭人たちに宛てて発給されました。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されたこの三通は、日本国内に現存するまとまった朝鮮国告身としては最も古いもので、海をはさんで取り交わされた中世日朝外交の生きた証として、いまもなお歴史研究の第一級資料となっています。
「告身」とは何か
告身(こくしん、朝鮮語:고신)とは、君主の名のもとに新たな官職を授ける際に発給される正式な任命書のことです。もともとは唐代中国の官僚制度において用いられた書式で、その後朝鮮半島の歴代王朝に受け継がれ、朝鮮王朝(1392–1910)においては官位授与の標準的な証書として制度化されました。
告身は単なる「辞令書」ではなく、受け取った人物が王朝の官僚機構のなかにしっかりと組み込まれたことを示す物証であり、当時東アジア全域で共有されていた中国年号によって日付が記され、王朝の公印が捺されていました。とりわけ対馬伝来のこの三通が興味深いのは、朝鮮国の臣民ではなく、海を渡る日本人の海商――すなわち「倭人」――に対して発給されたという点です。これは朝鮮王朝が、有力な倭人首領に官職と俸禄、交易特権を与えることで、倭寇を懐柔し、平和な公認交易者へと転身させるという積極的な対外政策の一環でした。
早田氏と中世対馬の海賊海岸
これらの告身を伝えた早田氏は、対馬西岸の入り組んだ浅茅湾を望む尾崎を本拠とした海上勢力でした。十四世紀末から十五世紀にかけて、早田氏は九州本土・朝鮮沿岸・明・琉球にまでおよぶ広域の交易ネットワークを築き上げ、最盛期には浅茅湾沿いの複数の集落を合わせて七百戸あまりを擁したと、朝鮮の地理書『海東諸国記』(1471年成立)は伝えています。これは当時の対馬において記録上最大規模の集落群であり、早田氏が事実上、島内随一の勢力であったことを物語ります。
その一方で早田氏は、十四世紀後半から十五世紀初頭にかけて朝鮮・中国沿岸を荒らした倭寇の有力な担い手としても知られていました。応永26年(1419)、朝鮮王朝は倭寇根絶を目的として大規模な対馬遠征軍を派遣します。これがいわゆる「応永の外寇」であり、早田氏の拠点もまっさきに襲撃の対象となりました。しかし一世代もたたぬうちに、同じ早田氏は公認交易の担い手として再び海上を行き来するようになり、その子孫や同族の倭人たちに発給された告身こそが、いま重要文化財として大切に伝えられているのです。
三通の文書
本資料は、いずれも一枚仕立ての大判の楮紙(こうし)に、当時の外交公用語であった漢文で記された三通の文書から成ります。日付には朝鮮王朝が用いていた明朝年号が用いられており、東アジア共通の時間軸のなかに置かれた外交文書であることがわかります。
第一の文書は成化13年(文明9年・1477)9月17日付で、宛先は「倭人某」、寸法はおよそ98.9×85.4センチメートル。第二の文書は成化18年(文明14年・1482)3月の発給で、倭人皮古三甫羅に宛てられ、寸法は約98.0×79.8センチメートル。第三の文書は弘治16年(文亀3年・1503)3月の発給で、倭人皮古而羅に宛てられ、寸法は約106.6×80.6センチメートルあります。「皮古三甫羅」「皮古而羅」といった表記は日本語の音を漢字で写したもので、当時の海峡をまたぐ往復文書にしばしば見られる慣行です。
三通はそれぞれ別個の人物に宛てられていますが、いずれも早田家に伝来した点と、倭人に朝鮮王朝の官職を授け、その見返りに公認貿易船を朝鮮の指定港に送る権利を与えるという点で、一貫した目的をもった文書群となっています。
なぜ重要文化財に指定されたのか
朝鮮国告身は昭和49年(1974)6月8日、国の重要文化財に指定されました。その評価の根拠は大きく三つの柱に整理できます。
第一に、希少性です。朝鮮王朝期の告身は朝鮮半島の各所にも残存しますが、倭人を宛先とし、しかも三通そろって伝来した例はきわめて稀で、わが国に現存する朝鮮国告身としては最古のまとまった遺品とされています。
第二に、史料的価値です。これらの告身は、朝鮮王朝が有力倭人を体制内に取り込むために用いた「受職人(じゅしょくじん)」制度の物的証拠そのものであり、中世東アジア外交史を研究する上で欠かすことのできない一次資料となっています。
第三に、保存状態の良さです。各文書は一枚仕立ての大判楮紙に書かれており、五百年以上を経たいまも書体・形式・印章が判読可能な状態で残されています。断片ではなく完結した証書として伝来していることから、十五~十六世紀の朝鮮王朝外交実務の細部に至るまで観察することができます。
魅力と見どころ
機会に恵まれて実物を目にしたとき、まず驚かされるのはその大きさです。一辺がおよそ一メートル前後にもおよぶ堂々たる料紙は、ささやかな辞令書というよりも、儀礼的な宣言を視覚化した晴れがましい書きものであったことを物語ります。墨色も、朝鮮王朝の宮廷書記が筆をふるった整った楷書で、漢文の格調ある言い回しからは、東アジアの文人世界が言語の違いを超えて共有していた古典文化の厚みが伝わってきます。
また、漢字音で記された日本人名――皮古三甫羅、皮古而羅――は、海峡を行き交う人々の名前が、書かれる側の言語に翻案されながら記録に残っていく過程を示す貴重な実例でもあります。1477年・1482年・1503年という三つの年代を並べてみると、倭寇の時代の名残のなかから新たな公認貿易の秩序がじわじわと立ち上がっていく、その移行のドラマを一通また一通と読み取ることができるのです。
拝観・所在について
三通の告身は個人所蔵品ですが、長年にわたり対馬の公的機関に寄託され、調査研究と保存が進められてきました。歴史的には、昭和52年(1977)に厳原町に開館した長崎県立対馬歴史民俗資料館が中心的な役割を担ってきましたが、現在ではその機能の再編にともない、令和4年(2022)に開館した対馬博物館(厳原町)が展示活動を担い、調査研究と資料管理は長崎県対馬歴史研究センターが受け持っています。
本資料はきわめて脆弱なため常設展示はされていません。実物の鑑賞を希望される場合は、対馬博物館または対馬歴史研究センターの企画展情報をあらかじめ確認したうえで来訪されることをおすすめします。原本が出展されていない期間でも、両館では対馬宗家文書をはじめとする関連資料を通じて、告身が生まれた中世日朝外交の文脈を深く知ることができます。
厳原周辺をめぐる――国境の島の歩き方
対馬の歴史的中心地である厳原町には、国境の島ならではの史跡が徒歩圏内に凝縮しています。両館の近くには、対馬を数百年にわたり統治した宗家ゆかりの旧金石城庭園(国指定名勝)があり、宗家累代の墓所である万松院では、巨木の杉に見守られて百を超える対馬藩主一族の墓石が静かに並びます。さらに桟原城の旧第三門を復元した「高麗門」もこの一帯に立ち、島と朝鮮半島との切り離しがたい結びつきを今に伝えています。
時間に余裕があれば、上見坂を越えて美津島町黒瀬の特別史跡・金田城跡を訪ねるのもよいでしょう。七世紀に大陸からの侵攻に備えて築かれた古代山城の石塁が、いまも城山の山腹に残っています。武で守るべきだった海峡が、八世紀のち、朝鮮国告身のような文書外交によって平和な往来の場へと姿を変えていった――その対比こそ、対馬という土地が現代の旅人に投げかける深い問いでもあります。海岸線では、リアス式の浅茅湾を巡る遊覧や、峰町木坂の海神神社といった海辺の聖地もあわせて訪ねたい場所です。
Q&A
- 朝鮮国告身とはどのような文書なのですか。
- 朝鮮王朝の国王の名で発給された正式な任命書で、受け取った人物に官位や官職を授けることを公的に証明するものです。書式そのものは唐代中国に源流をもち、朝鮮王朝の官僚制度のなかで個人の地位を示す標準的な証書として用いられました。
- なぜ日本人の海商に朝鮮国の官位が与えられたのですか。
- 十四世紀末以降、朝鮮王朝は有力な倭人首領を体制内に取り込むことで倭寇被害を減らそうとし、官職と交易特権を授ける「受職人」制度を整えました。これにより、海賊行為で名をはせた人々が公認の貿易者へと姿を変え、対馬海峡の安定と長期にわたる正規交易の基盤が築かれていったのです。
- 一般の旅行者でも実物を見ることはできますか。
- 原本は非常に繊細なため常設展示はされておらず、対馬博物館や対馬歴史研究センターの企画展で随時公開される機会があります。来訪前に各館の展示スケジュールを必ず確認されることをおすすめします。
- 「成化」「弘治」という年号と日本の暦・西暦の関係は。
- 成化と弘治はいずれも明朝の年号で、朝鮮王朝が公式文書で用いていたものです。成化13年は1477年(日本では文明9年)、成化18年は1482年(文明14年)、弘治16年は1503年(文亀3年)に相当し、いずれも日本では室町時代後期にあたります。
- 対馬が日朝関係史で特別な存在とされるのはなぜですか。
- 対馬は九州と朝鮮半島の中間に位置し、地理的には福岡よりも釜山に近い島です。千年以上にわたって両国を結ぶ最重要の中継地として、外交使節・商人・僧侶・移住者の往来を支え続けてきました。日朝関係史の主要な場面のほぼすべてが、この島のどこかに痕跡を残しているといってよいほどです。
基本情報
| 名称 | 朝鮮国告身(ちょうせんこくこくしん) |
|---|---|
| 指定種別 | 重要文化財(書跡・典籍・古文書) |
| 指定年月日 | 昭和49年(1974)6月8日 |
| 員数 | 三通 |
| 発給年 | 成化13年(1477)/成化18年(1482)/弘治16年(1503) |
| 法量 | 約98.9×85.4cm/約98.0×79.8cm/約106.6×80.6cm |
| 料紙 | 楮紙(一枚仕立て) |
| 原宛名 | 対馬・早田氏ゆかりの倭人三名 |
| 所有者 | 個人蔵(早田氏) |
| 所在地 | 長崎県対馬市厳原町今屋敷 |
| 関連施設 | 対馬博物館/長崎県対馬歴史研究センター |
参考文献
- 長崎県の文化財データベース「朝鮮国告身」
- https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/544
- 対馬市「国指定文化財一覧」
- https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/gyousei/soshiki/kyouiku/bunkazaika/bunkazai/bunkazai/1051.html
- 対馬市「有形文化財(重要文化財)」
- https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/gyousei/soshiki/kyouiku/bunkazaika/bunkazai/shinainobunkazai/367.html
- Wikipedia「早田氏」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/早田氏
- Wikipedia「興利倭船」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/興利倭船
- 長崎県対馬歴史研究センター
- https://tsushima-hrc.jp/
- 対馬博物館 公式サイト
- https://tsushimamuseum.jp/
最終更新日: 2026.04.30