清水山城跡

長崎県対馬市厳原町、港町を見下ろす標高206メートルの清水山の尾根に、東西約500メートルにわたって石垣と虎口がほぼ天正期のまま遺存している。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に備えて短期間で築かれた清水山城跡である。昭和59年(1984年)12月6日、国の史跡に指定された。

築城後わずか数年で役目を終え、放棄されたまま改変を受けずに今日まで残されてきた。江戸期の修築も近世以降の改造もない、いわば天正期の現場をそのまま閉じ込めた山城である。眼下には現在も韓国・釜山との定期航路が発着する厳原港が広がる。

朝鮮出兵の中継基地として

天正19年(1591年)、天下統一を果たしたばかりの豊臣秀吉は、明朝中国の征服を目標に掲げ、朝鮮半島を経由する大陸侵攻計画を本格化させる。出兵の総本部として肥前国松浦郡に名護屋城を築き、玄界灘を渡る兵站線の中継拠点として、壱岐に勝本城、対馬に清水山城を構えた。

対馬は古来より日本と朝鮮王朝との外交・通商の窓口を担ってきた島である。中世以降、宗氏が島主としてその実務を握り、当時の島主・宗義智は出兵を回避すべく朝鮮との交渉に奔走したが、ついに戦争を止めることはできなかった。築城の指揮はその義智に委ねられたとされる。

文化6年(1809年)に成立した『津島紀事』は、秀吉の命を受けた毛利高政が築城にあたったと記す。一方、近年の研究では、宗義智を中心に、相良長毎・高橋直次・筑紫廣門ら肥後・筑後の大名が加勢したとする説が有力となっている。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは『日本史』のなかで、秀吉が壱岐・対馬に「屋敷と宿舎、食糧用貯蔵庫」の造営を命じたと書き残しているが、清水山城の構造は明らかに兵站基地ではなく要塞のそれである。秀吉本人の宿所機能は、麓の金石城が担った可能性が指摘されている。

文禄の役(1592年)、慶長の役(1597–98年)と二度の出兵を経て、秀吉の死とともに日本軍は撤退した。中継基地としての役目を終えた清水山城はそのまま放置され、以後改修を受けることもなく現在に至る。

国史跡に指定された理由

清水山城跡は、昭和59年(1984年)12月6日付で国の史跡に指定された(告示番号140号)。指定基準は「都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡」。文禄・慶長の役という、近世初頭の東アジア国際関係を決定づけた一大事件の遺跡であること、そして近世初頭の陣城遺構として、当時の姿を例外的によく残していることが評価された。

秀吉が出兵のために築かせた一連の城群――肥前名護屋城、壱岐勝本城、そして朝鮮半島沿岸に築かれた数々の倭城――のうち、清水山城は撤退後に廃城となり、江戸期の改修を受けずに済んだ数少ない例である。三段に連なる曲輪、それを繋ぐ石垣、桝形虎口の構成は、いずれも天正19年からごく短期間に一気に築かれたままの姿である。

特別史跡である名護屋城跡並びに陣跡と一体の遺跡群として位置づけられており、近世初頭の出兵関係遺跡を理解するうえで欠かせない史料的価値を持つ。

尾根を歩いて遺構を読む

城は清水山の馬背状の尾根を東から西へと延びる。最高所の標高208メートル付近に一ノ丸、中段に二ノ丸、東端の標高95メートル付近に三ノ丸が配され、その間を石塁が連続して結ぶ。総延長はおよそ500メートル。

一ノ丸は東西約50メートル、南北約40メートルの規模で、隅丸の長方形に近い平面を持つ。中央には櫓の基壇とみられる石組みが残り、東側正面と西側搦手の双方に門址と桝形を備える。一般に当時の城郭では矩形の曲輪が多く、ほぼ円形に近い一ノ丸の形状は、近世初頭の城郭としてはやや特異な部類に入る。

三ノ丸は石垣の出張・門址・石段がよく残り、横矢を掛けるための小さな桝形遺構が六か所確認できる。東に向かって突き出した先端からは厳原港と城下の町並みが一望でき、晴れた日には水平線の彼方に壱岐が浮かぶ。築城地の選定理由を体感できる場所である。

石垣には算木積みや、化粧として大きな平石を見せ場に据える鏡積みなど、桃山期特有の技法が確認できる。岩盤の露出した狭い尾根を削平し、両側面を石塁で囲うことで細長い回廊状の空間を作り出している点は、後に朝鮮半島で日本軍が築いた倭城に見られる竪石垣の発想とも通じる。

厳原を歩いてめぐる

清水山城跡は厳原の中心部から徒歩圏にあり、城下町の歴史散策と組み合わせて半日で回ることができる。観光情報館ふれあい処つしまから登山口までおよそ徒歩10分、三ノ丸まで5分、二ノ丸まで15分、一ノ丸まではさらに10分。往復で1時間ほどが目安となる。

山麓の金石城跡は、江戸期を通じて対馬藩主・宗氏の居城だった場所で、復元された大手門と庭園が当時の景観を偲ばせる。清水山城が「戦の城」だとすれば、金石城は「外交の城」である。さらに歩を進めると、宗氏の菩提寺・万松院がある。132段の石段「百雁木」を登った先には歴代藩主の墓所が並び、加賀前田家、長州毛利家と並んで日本三大墓地のひとつに数えられる。

2022年に開館した対馬博物館では、宗氏が江戸時代を通じて朝鮮王朝と交わした膨大な外交文書が公開されている。午前を清水山城に充て、午後を博物館で過ごせば、戦と平和という対極の二つの時代が、ひとつの厳原という土地のなかで重なって見えてくる。

よくある質問

Q登山にどれくらい時間がかかりますか?
A登山口から最高所の一ノ丸まではおよそ30分です。三ノ丸までであれば15分ほどで到達できます。傾斜が急な箇所があり、雨天時には岩盤が滑りやすくなるため、しっかりとした靴を用意してください。
Q気軽なハイキングとして訪れても問題ありませんか?
A町なかから登山口まで緑色の案内板が整備されており、迷うことはほぼありません。ただし山中にはトイレも自販機もありませんので、水分は事前にご用意ください。観光情報館ふれあい処つしまで無料パンフレットを入手できます。
Qなぜ対馬に城が築かれたのですか?
A対馬は九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置し、古来より日本と朝鮮王朝との外交・通商の窓口を担ってきた島です。文禄元年(1592年)の出兵に際し、釜山方面へ兵員と物資を渡海させる中継基地として、清水山城が築かれました。
Q通年訪問できますか?
A史跡として常時開放されており、入場料も不要です。春と秋が最も歩きやすい季節です。夏季は湿度が高く、まれにイノシシと遭遇することもあります。冬も岩盤が乾いていれば快適です。
Q金石城跡との関係は?
A両者はほぼ同時期に整備された宗氏の城ですが、機能が異なります。金石城は山麓の平地に置かれた居館・外交儀礼の場であり、後に朝鮮通信使を迎える舞台ともなりました。清水山城は山上の軍事拠点で、秀吉自身が対馬滞在の際に詰めた御座所は金石城だった可能性が指摘されています。

基本情報

名称清水山城跡(しみずやまじょうあと)
指定区分国指定史跡(告示番号140号)
指定年月日昭和59年(1984年)12月6日
指定基準二、都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在地長崎県対馬市厳原町西里
築城時期天正19年(1591年)頃、安土桃山時代
規模清水山尾根(山頂標高206メートル)に沿って東西約500メートル
主な遺構石垣、桝形虎口、櫓基壇(一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸の三曲輪)
アクセス厳原港より徒歩約20分。登山口は金石城跡の北側
入場無料、常時開放

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):清水山城跡
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/2784
文化遺産オンライン:清水山城跡
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/173375
長崎県の文化財:清水山城跡(長崎県文化財課)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/561
ながさき旅ネット:清水山城跡
https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/809

最終更新日: 2026.05.19