合掌する二体の塑像
身の丈はいずれも二メートルをわずかに超える。胸の前で静かに合掌し、肩から流れ落ちる衣をまとった二体の像が、並んで立っている。造立当初は朱・緑・青で彩られていたが、千二百年あまりのうちに彩色の大半は剥がれ落ち、いまは透き通るような白い肌があらわれている。長くこの二体は、東大寺で最も古い建物である法華堂の薄暗い堂内に置かれ、中央の大きな本尊の左右に立っていた。現在は数分の道のりにある東大寺ミュージアムへ移され、来館者は像とほぼ同じ目の高さで向き合うことができる。
文化庁の指定名称は「塑造〈日光仏/月光仏〉立像(所在法華堂)」という。やや慎重な言い回しには理由がある。この二体の像は、その名も、もとの安置場所も、長らく研究者のあいだで議論の的であり続けてきた。
何の像で、どこから来たのか
制作は奈良時代、八世紀の天平期にさかのぼる。都と大寺院が国家の規模で築かれていった時代の作である。技法は塑造、すなわち木の心木に縄や藁を巻き、その上に粗い土から細かい土へと層を重ねて手で形を整える方法で、焼成は行わない。塑像は表面を画家が画布を扱うように練り上げることができ、頬のわずかな起伏や袖の落ち方といった微妙な変化をとらえやすい。
この二体が異色なのは、法華堂のほかの主要な像がほとんど乾漆造、つまり麻布を型の上に何枚も重ねて漆で固める技法で作られていた点にある。塑造はこの二体と、名高い執金剛神立像だけであった。技法のこの違いが、二体ははじめからほかの群像とともにあったのかという、長い議論を生むことになった。
二体はその歴史の大半を、法華堂の八角二重壇の上で過ごした。中央に立つ本尊、乾漆造の不空羂索観音立像をはさんで、左右に一体ずつである。二〇一一年、東大寺が壊れやすい寺宝を地震から守るため部屋単位の免震装置を備えたミュージアムを開館すると、二体はほかの寺宝とともにそちらへ移された。以後、常設展示として公開が続いている。
国宝指定と、名をめぐる謎
二体は明治三十年(一八九七)に旧制度の国宝として初めて保護を受け、戦後の文化財保護法のもとで昭和二十七年(一九五二)三月二十九日にあらためて国宝に指定された。彫刻としての価値が疑われたことはない。問題は、これが何の像なのか、という点にある。
付されている「日光」「月光」という名には難がある。日光・月光の両菩薩は本来、薬師如来の脇侍であり、観音像の脇侍として安置された例はほかに知られていない。両者を日光・月光と記す最古の記録は元禄年間(一六八八〜一七〇四)にとどまり、造立から九百年以上も後のことである。像そのものをよく見ると、名称とは食い違う特徴が目につく。中国風の貴人の装いに髪を結い上げ、一体は襟元に鎧の一部とおぼしきものがあり、二体とも靴を履いている。こうした姿はむしろ梵天・帝釈天、すなわちインドのブラフマー神とインドラ神を指し示す。今日では後者の見方に傾く専門家が多いが、寺は古くからの名で二体を呼び継いできており、決着がついたわけではない。
もとの安置場所についても見方が分かれる。塑造という技法が乾漆の諸像と二体を隔てるため、そもそも塑像が法華堂にあったのかと疑う声もあった。近年、中央の八角壇を調べたところ、かつて塑像が乗っていたとみられる痕跡が見つかり、この疑問はやわらいだ。ただし、この二体がどこで生まれたのかという問いまでが解けたわけではない。
見どころ
並べて見ると二体はほとんど同じに映るが、違いは衣の彫りにあらわれる。日光と呼ばれる像では衣文線が多く、稜の起伏に強弱があって、体に動きが感じられる。月光と呼ばれる像では衣文線が少なくゆるやかで、生まれるのは静けさである。動と静の対比は、この二体が幾世紀にもわたって愛されてきた理由の一つで、亀井勝一郎は大和の古寺をめぐる随筆のなかで長くこれを称えている。
目もとに注目したい。二体とも切れ長の瞼をもち、これがかつて両脇に立っていた中央の観音像とよく似ている。そのため、三体すべての背後に同じ仏師、あるいは同じ工房があったと推測する研究者は少なくない。彩色の喪失はふつう損傷の証だが、ここではかえって像のために働いている。塗りを失ったことで土の造形がそのまま見え、合掌の所作にふさわしい清廉な白さが表面に生まれている。
館内は撮影できないので、ここは写すよりも立ち止まって眺める場所である。第二室は法華堂の堂内を想わせる設計になっており、二体がかつてどのような薄明かりのなかに立っていたかが、いくらか感じ取れる。
東大寺の周辺
ミュージアムは東大寺の参道近く、総合文化センターの中にあるため、境内をめぐる一日の行程に自然に組み込める。巨大な銅造の盧舎那仏を安置する大仏殿は数分の距離で、大仏殿とミュージアムの共通拝観券もたいてい用意されている。
法華堂そのもの、三月堂とも呼ばれる建物も健在で、堂内に入ることができる。本尊の観音像を囲んで奈良時代の像が十体ほど今も並んでおり、二体の塑像がその歴史の大半を過ごした場所を実際に見ることができる。奈良時代の塑像に関心のある人は、戒壇堂に伝わった四天王像にも足を運びたい。同じ壊れやすい素材による、もう一つの名高い群像である。周囲の公園には鹿が放し飼いにされ、各所を結ぶ道は、国内でも有数の古い聖地を通り抜けていく。
Q&A
- いまどこで見られますか。
- 大仏殿近くの総合文化センター内にある東大寺ミュージアムで常設展示されています。二〇一一年に法華堂から移されており、現在は堂内には置かれていません。
- 本当に日光・月光菩薩なのですか。
- 確かではありません。この名は江戸時代にさかのぼるにすぎず、装いや持物から梵天・帝釈天とする見方もあります。寺では古くからの名で伝えていますが、結論は出ていません。
- なぜこんなに白いのですか。
- もとは鮮やかに彩色されていましたが、千二百年あまりのうちに彩色の大半が剥落し、下地の白い土があらわれています。塗りを失ったことで、像の造形がかえってよく見えます。
- 写真は撮れますか。
- 撮れません。館内では撮影・スケッチ・懐中電灯の使用が禁じられています。壊れやすい塑像を守る目的もあります。
- ミュージアムへの行き方は。
- 近鉄奈良駅またはJR奈良駅から市内循環バスに乗り、「東大寺大仏殿・春日大社前」で下車して徒歩約五分です。開館は九時半で、境内の拝観開始より少し遅い点に注意してください。
基本情報
| 指定名称 | 塑造〈日光仏/月光仏〉立像(所在法華堂) |
|---|---|
| 区分 | 彫刻/国宝 |
| 員数 | 二躯(二体で一件の指定) |
| 時代 | 奈良時代(八世紀) |
| 技法 | 塑造(焼成せず)、もと彩色 |
| 像高 | いずれも約二メートル(およそ二〇五〜二〇七センチ。記録により若干の差) |
| 指定年月日 | 旧国宝 明治三十年(一八九七)十二月二十八日/現行指定 昭和二十七年(一九五二)三月二十九日 |
| 所有者 | 東大寺(奈良県) |
| 現在の所在 | 東大寺ミュージアム(奈良市水門町一〇〇) |
| 開館時間 | 四〜十月 九時半〜十七時半(最終入館十七時)/十一〜三月 九時半〜十七時(最終入館十六時半) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/194
- 東大寺ミュージアム(東大寺 公式サイト)
- https://www.todaiji.or.jp/information/museum/
- 法華堂(三月堂)(東大寺 公式サイト)
- https://www.todaiji.or.jp/information/hokkedo/
- 東大寺 伝日光菩薩立像・伝月光菩薩立像(nippon.com)
- https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b10926/
- 国宝-彫刻 日光仏・月光仏[東大寺/奈良](WANDER 国宝)
- https://wanderkokuho.com/201-00194/
最終更新日: 2026.06.13