多武峰の山あいに残された彭城百川晩年の障壁画

宝暦元年(一七五一)の春、五十代半ばの一人の画家が、奈良の南、多武峰の尾根に建つ住まいの座敷のために描いた一連の絵に、自らの署名と年記を記した。画家の名は彭城百川。それからおよそ一年半後、百川はこの世を去る。彼が残した四十一面の絵は、四つの続き間の襖や壁に描き込まれ、現在は重要文化財に指定されている。指定名称は長く、そして正確である。「旧慈門院障壁画〈彭城百川筆/宝暦元年四月の年記がある〉」という。

この座敷は、もとは妙楽寺の子院のひとつ、慈門院のものであった。妙楽寺は、いまの談山神社が建つ地にあった寺院群である。明治初年の神仏分離によって子院は談山神社の社家・陶原家の手に移り、その住まいとなった。格式ある邸宅の接客空間である書院造りの内部は、その転換を経てもほぼそのまま残り、百川の絵もそこにとどまった。

百川がこの座敷に描いたのは山水であった。前の世紀をいろどった城郭や大寺院の、金地のはなやかな障屏画とは性格を異にする。紙に墨と淡い彩色をほどこした、抑えのきいた画面である。これは百川の世代の画家たちが中国の文人画の流れから学び取りつつあった様式であった。山々は霞のなかへ退き、その下に水面がひらけ、わずかな点景人物が等身大の尺度で景中を行く。これら板絵の一部は、紙本淡彩の山水図として記録されている。

この障壁画の価値

百川は、日本の南画(文人画)の第一世代に属する。南画という呼び名はその源を指している。すなわち中国絵画の南宗画、すなわち士大夫・文人が手すさびとして描いた系譜であり、技巧の仕上げや誇示よりも筆致と含み、個の表現を重んじた。百川は、その本格的な中国風山水を日本で初めて描きこなした画家とされることが多い。祇園南海、柳沢淇園とならび、三人はしばしば草創期の先駆者として名を連ねる。

百川がそこへ至った道は変わっていた。元禄十年(一六九七)、名古屋に薬種商の子として生まれた百川は、武士でも学者でもない町人であり、自らの絵を売って生計を立てた。そのことを彼は「売画自給」と称してはばからなかった。淇園らが漢詩文の素養と画論・画譜をめぐる理論から中国絵画に分け入ったのに対し、百川はより直接に、舶載された中国画や愛好家のあいだに出回った版本の画譜から学び取っていった。彼はまた俳諧で目を養っており、画業に落ち着く前には蕉門の宗匠に学んでいる。こうした雑多な出自が、その画風に幅広さと、作品ごとの起伏をもたらしたとも評される。

後世の多くの文人画家が苦手とした大画面を、百川は描きこなすことができた。襖や屏風は、小さな画帖にはない建築的な尺度の感覚を要求する。百川はそれを確かな筆で処理しており、慈門院の座敷はその持続的な実例である。指定の解説は、構図のまとまりと、ほかに例の少ない強い陰影の表現を取り上げ、それを百川独特の様式と呼び、初期南画が進みつつあった一つの方向を示す作と位置づけている。

この絵が年記を備えていることも、評価の理由のひとつである。年紀と落款のある作品は、画家の歩みのなかに一点を据える。百川にはそうした基準作が比較的少ない。本図は彼の生涯のまさしく末期、数え五十五の年の制作にあたる。指定名称はその年記を宝暦元年四月とし、国の解説は本図を同年三月の制作と記す。いずれにせよ、百川が最後に手がけたもののひとつである。

見どころ

四つの続き間にわたって描かれているため、この絵は一面ずつ独立した額装の絵ではなく、移ろう連続として読まれることを意図していた。座敷に座した客は、一度に複数の壁面に山水を見たことになる。景色は隅を折れ、間仕切りを越えて続いていく。そうと知って眺めると、絵の見え方が変わる。視線は景中を旅するようにいざなわれる。

奥行きの扱いに注目したい。百川は墨の濃淡で距離を立ち上げる。手前のかたちは濃く確かに、遠いものは紙へ溶けていく。そこへ解説の称える陰影が加わり、岩肌や斜面が光を受けては失うように見える。この、当時の日本の水墨画が試みた以上に量感に近づこうとする肉づけが、本作を、後の定型に落ち着いたものではなく初期の実験的な仕事として印象づける要素のひとつである。

彩色の倹しさも見ておきたい。色数は意図的に薄く、墨の上に土色や青緑をひとはけ重ねるにとどめ、広い余白を水・空・霞として読ませる。文人画の趣味がここに働いている。少なさがより多くを含ませ、描かれない地が構図のなかで確かな役割を果たしている。

周辺とアクセス

絵そのものは、もはや描かれた座敷にはない。現在は奈良国立博物館に寄託されており、常時公開されているわけではない。同館の特別展などに折にふれて出ることがあるため、原本を見たい場合は、出かける前に開催中の展示内容を確かめるのがよい。旧慈門院の住まいは個人の邸宅であり、一般には公開されていない。

足を運ぶべき場所は談山神社である。奈良市中心部から南へ、車でも鉄道でもおよそ一時間、桜井市の多武峰の山中に位置する。神社は藤原鎌足を祀り、言い伝えでは、鎌足と中大兄皇子が古代国家の改革を談じた地とされる。境内は朱塗りの社殿が斜面を段々に上り、他に例のない十三重塔の木造塔がその頂をなす。ここの楓は名高く、斜面が赤く色づく晩秋がもっともにぎわい、また見ごたえもある。春の桜、初夏の新緑は人出も穏やかで、ゆっくりと歩く時間に報いてくれる。

旧子院のほかの建物、すなわち客殿や庫裏、小さな持仏堂、門などは国の登録有形文化財に挙げられている。絵が移ったあとも、かつて絵をおさめていた建築の場は、それ自体として保護される地位をもつ。談山神社に参り、周囲の一画を歩くことで、陶原家が暮らした世界と、百川が向き合っていた座敷のありようが見えてくる。

Q&A

Q描かれた座敷で絵を見ることはできますか。
Aできません。各面は奈良国立博物館に寄託されており、旧慈門院の住まいは非公開の個人邸です。原本が見られるのは、同館の特別展などに出品される折に限られます。
Q彭城百川とはどのような人物ですか。
A一六九七年から一七五二年まで生きた画家・俳人です。名古屋の商家に生まれ、中国に由来する文人画(南画)を日本で本格的に描いた先駆者のひとりとなりました。のちの池大雅や与謝蕪村が彼の仕事に学び、とりわけ蕪村は百川を深く敬っています。
Q何が描かれているのですか。
A山水です。四室の襖と壁に、紙へ墨と淡い彩色で描かれています。題材は山・水・霞といった文人画の世界であり、前代の御殿や寺院を飾った金地の華麗な画面とは趣を異にします。
Q談山神社とはどう関わるのですか。
A座敷はもと、談山神社の前身である寺院の子院・慈門院のものでした。明治の神仏分離ののち、子院は談山神社の社家・陶原家の住まいとなり、そのため絵がこの地と結びついています。
Q談山神社を訪ねるなら、いつがよいですか。
A楓の色づく晩秋がもっとも名高く、また混み合います。春は桜、初夏は新緑が楽しめ、いずれも人出は穏やかです。拝観は毎日受け付けていますが、最終受付は夕方のため、紅葉期は早めの行動が無難です。

基本データ

名称旧慈門院障壁画〈彭城百川筆/宝暦元年四月の年記がある〉(きゅうじもんいんしょうへきが)
種別絵画(襖絵・板絵)
員数四十一面、四室にわたる
作者彭城百川(一六九七〜一七五二)
年代江戸時代・宝暦元年(一七五一)。指定名称は四月の年記、国の解説は三月の制作と記す
指定区分重要文化財(昭和四十九年六月八日指定、指定番号 01713-01)
もとの所在旧慈門院(陶原家住宅)/奈良県桜井市・多武峰
所有者個人
現在の所在奈良国立博物館に寄託。常設展示ではない

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)旧慈門院障壁画
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/2438
談山神社 公式サイト
https://www.tanzan.or.jp/
奈良国立博物館 公式サイト
https://www.narahaku.go.jp/
桜井市 国指定文化財
https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/bunkazai/sakuraisibunkazai/1392871070608.html

最終更新日: 2026.06.14