神社と境を接する本堂

富貴寺本堂は、奈良県磯城郡川西町大字保田にある寺院本堂で、至徳5年(1388年)の建立、昭和29年(1954年)3月20日に国の重要文化財に指定された。

先に紛らわしい点を片付けておきたい。大分県豊後高田市にも同じ字を書く富貴寺があり、そちらの大堂は国宝で、九州最古の木造建築として知られる。両寺に関係はない。ここで扱うのは奈良盆地西部の平地に建つ川西町の富貴寺である。

富貴寺は六県神社(六縣神社)と境内を接している。この関係が、この場所についての最初に押さえるべき事実である。富貴寺は同社の神宮寺、すなわち神の本地仏を祀る寺として機能し、地元では「宮寺」と呼ばれた。現在も敷地には、手前に地蔵石仏を納めた小堂、その奥に本堂、さらに奥に六県神社拝殿が並ぶ。明治初年の神仏分離はこの種の組み合わせの多くを引き裂いたが、ここでは境界線が元の位置に残った。

寺伝では、貞観年間(859〜877年)に三論宗の僧・道詮律師が創建したという。道詮は無名の僧ではない。法隆寺夢殿を再興し、同寺の学問振興に力を注いだ人物で、法隆寺には国宝の道詮律師坐像が伝わる。富貴寺は現在、真言宗豊山派に属し、壺阪寺の末寺として扱われている。常住の僧はいない。

隣接する六県神社は、大和の六つの県(あがた)にちなむ高市命・葛木命・十市命・志貴命・山辺命・曽布命を祭神とする。

延宝7年に書き写された、二つの建立年

この本堂がいつ建ったかを直接示す文書は残っていない。残っているのは、柱に誰かが書き付けた文言である。

内陣の柱には延宝7年(1679年)の墨書があり、最初の堂が治承2年(1178年)に建てられたこと、そして至徳5年(1388年)に再建されたことが記されている。奈良県の歴史文化資源データベースは、建築の形式から見て後者の年代で差し支えないとする。前者についても、修理にともなう発掘調査でその時期のものとみられる基壇が検出され、思わぬ裏付けが得られた。

文化庁は年代を「至徳5」とし、西暦1388年をあてている。他の資料で同じ年が「元中5年」と書かれているのを見て戸惑う人がいるかもしれないが、これは誤りではない。1388年の日本には二つの朝廷があり、それぞれ別の年号を用いていた。北朝では至徳が至徳4年(1387年)に嘉慶へ改元されており、1388年は嘉慶2年にあたる。南朝ではこの年が元中5年である。墨書の「至徳5年」は前年で終わったはずの年号を使い続けたもので、改元の報が地方に届くのが遅れた場合にはよくあることだった。三つの呼び方はいずれも同じ暦年を指している。

登録されている形式は「桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺」。附として棟札1枚が本堂とともに指定されている。五間四方に近い平面へ寄棟の屋根を掛け、そこに本瓦を載せる。この組み合わせが、低く横に広がる輪郭を生んでいる。宮廷風というより、14世紀末の在地の本堂らしい姿である。

失われかけた建物でもある。川西町の説明は、近年まで荒廃していたと率直に書く。昭和39年から40年(1964〜65年)にかけて解体修理が行われ、面目を一新した。昭和29年に指定された建造物が、その後の10年を無事に越せたとは限らない。この本堂の現状は、あの修理に負っている。

本尊の背後、剥落した壁

須弥壇に立つのは三軀。いずれもそれ自体を目当てに足を運ぶ価値がある。

本尊は木造釈迦如来坐像で、大正8年(1919年)4月12日に重要文化財に指定された。像高845ミリ、桧材の寄木造、彫眼、漆箔。蓮花座と光背は後補で、欠失損傷がある。川西町は、平安時代後期でも最末期の和様彫刻とみて、現本堂の前身堂の建立年代と伝えられる治承2年(1178年)頃の造像と推定している。つまりこの釈迦如来は、頭上の屋根よりおよそ2世紀古い。

両脇に立つのは木造地蔵菩薩立像2軀。向かって右の一軀は像高963ミリ、桧材の寄木造、彫眼で、本尊と同じ日に重要文化財に指定されている。川西町はこれを本尊とほぼ同様の和様彫刻とし、同じ頃の造像と考えている。もう一軀は重要美術品にとどまる。

須弥壇の背後には来迎壁があり、その壁画の状態はよくない。彩色は上方の板にわずかに残るのみである。修理前には上下逆さまに取り付けられていた板があった。この一点だけでも、堂がどれほど長く手入れの届かない状態に置かれていたかが分かる。それでも図様は読み取れる。向かって右に五軀の如来形坐像、左には不動明王を中心として、その上下左右に火炎光を負った明王像。右端には象に乗る普賢菩薩、左端には獅子に乗る文殊菩薩らしい姿が描かれている。

実際の訪問について。この寺は無住であり、奈良県のデータベースは、地元の五人衆が管理と行事の運営を担っていると記す。境内に立ち入ることはできるが、堂内は常時公開ではない。仏像や壁画を見たい場合は、当日訪ねて扉が開くのを期待するのではなく、事前に川西町教育委員会へ問い合わせるのが確実である。

最寄り駅は近鉄橿原線の結崎駅で、東へおよそ3キロ。この道のりは歩いて楽しい。能楽観世流の発祥地と伝わる面塚、糸井神社、全長200メートルの島の山古墳、比売久波神社が途中にある。

日程に融通が利くなら、2月11日を狙いたい。この日の夜、隣の六県神社拝殿で「子出来オンダ」が演じられる。平成18年(2006年)に県指定文化財となった御田植祭で、保持団体は川西町保田自治会。十人衆と呼ばれる古老が拝殿北側に座り、その前で水見回り、牛使い、施肥、土こなげ、田植、螺拾いと続く。そのあとに、本厄の男子が妊婦に扮して夫のもとへ弁当を運び、腹に隠した太鼓を産み落とす所作が入る。

Q&A

Q川西町の富貴寺は、大分県の国宝・富貴寺大堂と同じ寺ですか。
A別の寺です。字が同じだけで関係はありません。大分県豊後高田市の富貴寺は大堂が国宝に指定されています。この記事で扱う富貴寺は奈良県磯城郡川西町大字保田にあり、本堂が昭和29年に重要文化財に指定されています。
Q富貴寺本堂はいつ建てられましたか。資料によって年号が違うのはなぜですか。
A1388年の再建です。内陣柱の延宝7年(1679年)墨書に、この年と、最初の堂の治承2年(1178年)が記されています。文化庁は「至徳5年」と表記し、他の資料は「元中5年」または「嘉慶2年」と書きます。当時は南北朝がそれぞれ別の年号を用いていたためで、指す年はいずれも1388年です。
Q富貴寺本堂の堂内に入って仏像を拝観できますか。
A無住であり、堂内は常時公開されていません。境内には自由に入れますが、堂内の拝観は事前に川西町教育委員会へ問い合わせて調整する必要があります。日常の管理は地元の五人衆が担っています。
Q富貴寺本堂にはどのような仏像が安置されていますか。
A本尊は像高845ミリの木造釈迦如来坐像で、大正8年指定の重要文化財、治承2年(1178年)頃の造像とみられています。両脇に木造地蔵菩薩立像2軀が立ち、向かって右の像高963ミリの一軀も重要文化財、もう一軀は重要美術品です。須弥壇背後の来迎壁には剥落の進んだ壁画が残ります。
Q富貴寺へのアクセスと、子出来オンダの日程を教えてください。
A近鉄橿原線の結崎駅から西へ約3キロで、途中に面塚、糸井神社、島の山古墳があります。子出来オンダは2月11日の夜、境内を接する六県神社の拝殿で行われる御田植祭で、平成18年に奈良県指定文化財となりました。

基本情報

名称富貴寺本堂(ふきじほんどう)
所在地奈良県磯城郡川西町大字保田
指定区分重要文化財(建造物)
指定年昭和29年(1954年)3月20日
員数1棟(附:棟札1枚)
寸法桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺。至徳5年(1388年)再建
所有者富貴寺(真言宗豊山派、壺阪寺末。無住)
公開状況境内は立ち入り可。堂内拝観は川西町教育委員会への事前問い合わせが必要

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「富貴寺本堂」
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2748
奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」富貴寺本堂
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00107.html
奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」富貴寺
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00234.html
川西町「川西町の文化財」
https://www.town.nara-kawanishi.lg.jp/0000000114.html

最終更新日: 2026.08.24