金地螺鈿毛抜形太刀 ― 春日大社に伝わる平安の「黄金の太刀」
奈良の深い杜にたたずむ春日大社には、「国宝の中の国宝」とも称される一振りの太刀が受け継がれています。金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)は、平安時代十二世紀に作られた奉納太刀で、金の工芸、漆の技、螺鈿の美しさが一本の刀に凝縮された類まれな作品です。鞘に描かれているのは勇ましい武士でも荒々しい龍でもありません。竹林のなかで雀を追いかける愛らしい猫の姿が、夜光貝と色ガラスによって三つの場面に分けて表現されています。平安の雅を体感したい旅人にとって、この太刀に出会う時間はきっと忘れがたい体験となるでしょう。
平安の宮廷が生んだ一振り
金地螺鈿毛抜形太刀が制作されたのは、平安時代後期の十二世紀、貴族文化が洗練の極みに達した時代のことです。本作は、現存する毛抜形太刀のなかで最古とされる一振りです。毛抜形太刀は平安時代中期に形が整えられた太刀様式で、柄の中央部に縦長の透かしがあり、その形が古代の毛抜きを思わせることからこの名で呼ばれています。
毛抜形太刀は本来、宮中を警護する衛府(えふ)官人が帯びた兵杖太刀で、故実書や古記録には「野劔(のだち)」「衛府太刀(えふだち)」と記されることもあります。公家が都の外へ出かける際にも用いられました。しかし金地螺鈿毛抜形太刀は、実戦のために作られたものではありません。神に捧げる神宝として誂えられ、春日大社の御本殿第二殿から撤下(てっか)されたと伝えられています。
この豪華な太刀を誰が奉納したのかは、古くからの謎のひとつです。奉納者を直接示す史料は今のところ発見されていませんが、春日大社と深いつながりを持つ摂関家の有力者、藤原頼長(1120〜1156)であった可能性が指摘されています。頼長は『台記』という日記を残しており、1142年(康治元年)の条には、病気の愛猫のために千手観音像を描かせて祈願したという心情豊かな一節があります。鞘に施された猫の意匠を思うと、この記述には想像をかき立てる余韻があります。
国宝に指定された理由
金地螺鈿毛抜形太刀は、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。その価値は、いずれか一つの要素ではなく、複数の卓越した特質が一本に凝縮されていることにあります。まず、完全な姿で現代まで伝わっている平安時代の毛抜形太刀は日本全国でわずか三振しかなく、本作はその中でも最古に位置づけられる極めて貴重な遺品です。侍の長剣の原型とされる形式の、最初期の姿を伝える資料としての価値は計り知れません。
第二に、素材と技法の卓越性が挙げられます。2016年の第六十次式年造替(二十年に一度の大規模修繕)に合わせて行われた最新の科学調査により、柄や覆輪など金具の多くが純金に近い金無垢で作られていることが明らかになりました。単独の工芸品にこれほどの金を惜しみなく用いた例は国内にもきわめて少なく、本作が「黄金の太刀」と呼ばれる所以となっています。
第三に、絵画的ともいえる装飾表現の巧みさが挙げられます。鞘は漆地に金粉を蒔き研ぎ出す「金沃懸地(きんいかけじ)」に、夜光貝の螺鈿、さらに緑と白の瑠璃(ガラス)を効果的に組み合わせた、きわめて凝った構成となっています。文化財データベースでも「種々の材質と技法を巧に駆使して絵画的文様を表現した豪華で精巧な作」と評され、刀装具としてのみならず、漆工史の上でも極めて価値が高いと位置づけられています。
見どころ
多くの日本刀を見てきた方にとっても、金地螺鈿毛抜形太刀には他のどの刀とも違う印象深さがあります。ぜひ以下の点に注目してご鑑賞ください。
物語を語る猫
鞘に描かれた螺鈿細工の連続描写は、本作の最大の魅力です。佩表(はきおもて)には、雀に忍び寄る姿、瞬発的に飛びかかる姿、そして仕留めて咥える姿と、同じ一匹の猫が三つの動作を連続して行う様子が細かく表されています。佩裏(はきうら)では、一度捕まえた雀を逃がしてしまい、振り返って見送る猫の姿が描かれているとも読み解かれています。平安期の装飾工芸に、このように動きを連続させた物語的な構図は極めて珍しく、一コマ一コマがまるでアニメーションのようにつながって見えてきます。
金の重なり
柄、鐔の覆輪、その他の金具は、純度の高い金ならではの柔らかな光沢を放っています。表面は魚卵のような細かな粒を打ち出した「魚々子地(ななこじ)」に仕立てられ、その上に蝶や鳥を配した宝相華唐草(ほうそうげからくさ)という架空の吉祥花の唐草文が彫り上げられています。光が当たると、粒の一つ一つが輝きを帯び、金が内側からほのかに発光しているように見えます。
毛抜形の柄
柄と刀身は一本の鉄から共鉄(ともてつ)で仕立てられており、これが毛抜形太刀ならではの特徴です。柄の中央には縦長の大きな透かしが入れられ、それがこの太刀の名前の由来となっています。鉄の固さをわずかにたわませる機能があったとも言われ、同時に本作全体のシルエットに独特の印象を与える造形的な要素でもあります。
螺鈿のなかのガラス
よく見ると、竹の葉や雀の一部、猫の一部などに、夜光貝ではなく透き通った緑や白のガラスがはめ込まれていることに気づきます。螺鈿と色ガラスを併用する手法は、色調に微妙な変化を与えるための洗練された選択であり、本作の作者が高度な技量と意匠感覚を備えていたことを物語っています。
どこで拝観できるか
金地螺鈿毛抜形太刀は、春日大社境内の博物館「春日大社国宝殿」に所蔵されています。春日大社でもっとも神聖かつ繊細な宝物のひとつであるため、常設展示は行われておらず、年に数回開催される特別展などの機会にのみ公開されます。ご訪問の前に、春日大社公式サイトの展示案内をご確認いただくことをおすすめいたします。
原品が展示されていない時期でも、国宝殿には見応えのある収蔵品が数多く並びます。春日大社は貴族から奉納された平安時代の神宝を今に伝えることから「平安の正倉院」とも呼ばれ、当館には蒔絵箏や鏡台など優美な工芸品、他の国宝太刀、赤糸威大鎧をはじめとする甲冑、鹿曼荼羅などの絵画、舞楽の面や装束、そして国宝の鼉太鼓(だだいこ)も展示されます。導入部には水と光で春日の聖域を表現したインスタレーション空間「神垣(かみがき)」が設けられ、宝物と向き合う前に心を静めることができます。
春日大社自体も、八世紀に創建された古社であり、「古都奈良の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されています。朱塗りの回廊、参道沿いに並ぶ三千基ともいわれる石燈籠や釣燈籠、そして境内の周囲を自由に歩く鹿たちの姿と共に、この太刀が生まれた世界の空気を感じ取っていただけます。
周辺のおすすめスポット
春日大社は奈良公園の東端に位置しており、日本でもとりわけ古い歴史を持つ文化景観の中にあります。徒歩圏内には世界遺産や名所が点在しています。大仏で知られる東大寺までは徒歩約十五分ほど。五重塔が印象的な興福寺も表参道沿いに広がります。奈良国立博物館では仏教美術の名品展が開かれ、これまでにも「国宝 春日大社のすべて」のような大規模な特別展で本作が展示されてきました。春日大社の南側には、『万葉集』に詠まれた草花を集めた萬葉植物園もあり、静かな散策の時間をお過ごしいただけます。
Q&A
- 春日大社を訪れればいつでも金地螺鈿毛抜形太刀を見られますか?
- いいえ、常設展示はされておりません。本作は春日大社でも最も大切にされる神宝のひとつで、国宝殿で年に数回開催される特別展の折にのみ公開されます。ご訪問前に、春日大社国宝殿の展示スケジュールをご確認いただくことをおすすめいたします。
- なぜ神聖な太刀に猫が描かれているのですか?
- 竹林で猫が雀を追う図柄は、中国の北宋時代頃から好まれた吉祥的なモチーフで、日本にも絵画として輸入されました。本作では一匹の同じ猫が連続した動作で描かれている点が特徴的です。また、奉納者として有力視されている藤原頼長が大変な愛猫家であったことから、その趣向が反映されている可能性も指摘されています。
- この太刀は戦いで使われたのですか?
- いいえ、本作は春日大社に奉納する神宝として誂えられたもので、実戦での使用を目的としたものではありません。実際、刀身は錆び付いており鞘から抜くことはできません。X線による解析で鋒(きっさき)の形状が明らかにされています。
- 春日大社へのアクセスはどうすればよいですか?
- JR奈良駅または近鉄奈良駅から、奈良市内循環バスにご乗車のうえ「春日大社表参道」バス停で下車し、参道を徒歩約10分ほどお進みください。春日大社本殿行きのバスをご利用いただくと、境内により近い場所まで約10分で到着します。
- 原品が展示されていない時に、複製などを見られる機会はありますか?
- 文化庁の復元模造事業によって、原品と同様の素材・技法で精巧に復元された模造品が平成30年(2018)に制作されており、大規模な特別展などで公開されてきました。また、2016年の第六十次式年造替の折には、新調された本作が新たな御神宝として神殿内に納められています。
基本情報
| 名称 | 金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(工芸品) |
| 時代 | 平安時代後期(12世紀) |
| 法量 | 総長96.3cm(柄長18.2cm、鞘長77.0cm) |
| 材質・技法 | 柄・刀身は共鉄造/鞘は木胎漆塗、金沃懸地、夜光貝の螺鈿、緑白の色ガラス嵌装/金具は金無垢 |
| 員数 | 1口 |
| 所有者 | 春日大社 |
| 国宝指定年月日 | 1951年(昭和26年)6月9日 |
| 拝観場所 | 春日大社国宝殿(Kasugataisha Museum) |
| 所在地 | 〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 |
| 国宝殿開館時間 | 10:00〜17:00(入館は16:30まで)※最新の情報は公式サイトでご確認ください |
| 国宝殿拝観料 | 一般700円、大学・高校生400円、中学・小学生300円(特別展により変更になる場合あり) |
| アクセス | JR・近鉄奈良駅からバスで「春日大社表参道」下車、徒歩約10分 |
参考文献
- 春日大社|主な収蔵品
- https://www.kasugataisha.or.jp/museum/takaramono/
- 春日大社国宝殿|公式ページ
- https://www.kasugataisha.or.jp/museum/
- 文化遺産オンライン(文化庁・NII)|金地螺鈿毛抜形太刀
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/177942
- 地域観光資源の多言語解説文データベース(観光庁)|春日大社 金地螺鈿毛抜形太刀
- https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-00907.html
- 奈良国立博物館|特別展「国宝 春日大社のすべて」
- https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201804_kasuga/
- あをによし なら旅ネット(奈良県観光公式サイト)|春日大社国宝殿
- http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/03treasure/01north_area/kasugataisha-homotsuden/
最終更新日: 2026.04.23