播磨国風土記 ― 千三百年の時を超える、古代日本のいきいきとした声

奈良県天理市、天理大学附属天理図書館の書庫に、ひっそりと一巻の紙の巻子本が保管されています。平安時代末期に書き写されたこの細長い巻物こそ、奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』を今に伝える、現存唯一の古写本です。昭和40(1965)年に国宝に指定されたこの書物は、今から千三百年以上前、現在の兵庫県南西部に生きた人々の声を、驚くほどいきいきと私たちに届けてくれます。古代日本の地理・神話・宗教・暮らしを理解するうえで欠くことのできない、まさに第一級の史料です。

歴史的背景 ― 和銅六年、朝廷からの命令

『播磨国風土記』の物語は、和銅六(713)年五月二日に元明天皇の朝廷から出された一つの詔から始まります。『続日本紀』に記されたこの命令は、諸国に対して領内の詳細な報告書を提出するよう求めたものでした。報告書に盛り込むべき内容は五つ。すなわち、郡や里の地名を好き字(よきじ)で記すこと、銀・銅・染料・草木・鳥獣・虫などの物産、土地の肥沃さ、山・川・原・野などの地名の由来、そして古老から伝承される旧聞・異事です。

こうして各国から提出された国情報告書は、やがて「風土記」と呼ばれるようになります。律令国家の体制が整いつつあった時代、風土記は国勢調査であり、民俗誌であり、経済資料でもあるという総合的な文書でした。全国六十余国がこれに応じたと考えられていますが、ある程度まとまった姿で現代まで伝わったのは、播磨・常陸・出雲・肥前・豊後のわずか五カ国分のみ。そのうち国宝に指定されているのは『播磨国風土記』と『肥前国風土記』の二本だけであり、本書の史料的価値の高さがよくわかります。

国宝に指定された理由

天理図書館が所蔵するこの巻物は、「三条西家本」と呼ばれます。公家の三条西家に長く伝来したためにこの名がついており、書風と料紙から判断して平安時代末期、およそ十二世紀後半以前の書写と見られています。風土記の古写本としては現存最古級に位置づけられる、まさに稀有な一品です。

三条西家の書庫に眠っていたこの巻物は、長いあいだその存在自体がほとんど知られていませんでした。研究者たちが知る『播磨国風土記』の断片は、後世の書物に引用された逸文ばかりでした。ところが寛政八(1796)年に柳原紀光が私的に書写したのをきっかけに、嘉永五(1852)年、谷森善臣によって三条西家所蔵本が書写され、ようやく世に知られるところとなります。もしこの一巻が失われていたなら、『播磨国風土記』のほとんどは永遠に失われていたことでしょう。

唯一の伝本であるうえ、記された内容の史料的価値がきわめて高く、さらに書写年代も古い。この三重の稀少性が認められ、昭和四十(1965)年五月二十九日、本書は国宝に指定されました。同じく国宝の『肥前国風土記』とともに、風土記古伝本として最も重要な文化財の一つに位置づけられています。

巻物の中身 ― 神々と天皇、そして日本最古の酒

風土記が記すのは播磨国、すなわち現在の兵庫県南西部一帯です。残念ながら現存本は完全な姿ではなく、播磨国総説、明石郡全体、加古郡の冒頭、赤穂郡全体が欠落しています。それでもなお、三百六十を超える地名が収録されており、土地の肥沃さ、特産物、そして何より地名にまつわる物語の豊かさは比類がありません。

神々と天皇で賑わう土地

本書の地名由来記事の多くは、神々や天皇の足跡を通じて語られます。国土を形づくった大汝命(大国主)と、海を渡ってきたとされる天日槍命(アメノヒボコ)が土地の占有を競う物語。景行天皇が印南別嬢に求婚し、後に別嬢を弔ったという切ない説話。かつて列島を背を屈めて歩いていた巨人(ダイダラボッチ)が託賀郡の高い土地でようやく背を伸ばすことができた、という「多可」の地名由来譚。これらは単なる奇談ではなく、古代の人々が自分たちの住む山河を神話のかたちで理解しようとした、生きた記憶そのものなのです。

日本最古の日本酒に関する記述

なかでも広く知られているのが、「大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき、すなわち酒を醸さしめて、庭酒を献りて宴しき」という一節です。神に供えた糧米が湿ってかびが生え、これを用いて酒を醸造したというこの記述は、米を原料とした日本酒に関する日本最古の文献記録と広く認められています。このため『播磨国風土記』は、日本酒文化の歴史を語るうえでも欠かせない書物となっています。

異例に詳細な土地の肥沃度評価

他国の風土記が土地の肥沃さに関する記述を慎重に避けるなか、『播磨国風土記』の編纂者は里ごとにおおむね九段階の評価を下しています。もっとも「上の上」と評価された里は一つもなく、おそらく一段階下げて報告する工夫がなされていたと見られています。近代の研究によれば、この評価は実際の地形・水利条件と驚くほど一致しており、古代人の観察眼の鋭さを物語ります。

訪問の手引き ― 国宝に出会う

天理大学附属天理図書館は、蔵書約百五十万冊を誇る日本有数の図書館です。国宝を六点、重要文化財を八十七点収蔵する一大文化拠点であり、昭和五(1930)年開館の壮麗な建築は令和五(2023)年に国の登録有形文化財に指定されました。資料保存の観点から、原本の『播磨国風土記』が常時展示されることはありませんが、図書館自体は十五歳以上であればどなたでも利用することができます。受付や閲覧室、重厚な建築意匠は一般の来館者にも開かれています。

また、本書は折に触れて東京国立博物館、島根県立古代出雲歴史博物館、隣接する天理大学附属天理参考館などの特別展に貸し出され、数年に一度のペースで実物が公開される機会があります。訪問を予定される場合は、あらかじめ天理図書館および天理参考館の公式サイトで展覧会情報をご確認のうえ、公開時期に合わせて旅程を組まれることをおすすめします。

アクセスは、JRおよび近鉄の天理駅から徒歩でおよそ二十〜二十五分。天理市街の独特な景観を楽しみながらの散策は、それ自体が一つの旅の体験となるでしょう。

周辺の見どころ

天理とその周辺は、日本古代史の重層的な舞台そのもので、古代日本文明の揺籃の地といえる地域です。

  • 石上神宮 ― 『古事記』『日本書紀』にも名が見える日本屈指の古社。平安時代末期建立の拝殿は国宝に指定されており、境内を自由に歩き回る神鶏の姿も印象的です。
  • 天理大学附属天理参考館 ― 図書館と同じ杣之内キャンパスにある、アジア・太平洋・アメリカ大陸の民族資料や考古資料を集めた世界水準の博物館です。
  • 山の辺の道 ― 日本最古の道とされる緩やかなハイキングコース。石上神宮を起点に、古墳や小さな社、里の風景をたどって桜井まで続きます。
  • 大和の古墳群 ― 崇神天皇陵・景行天皇陵をはじめ、前方後円墳が数多く点在しています。景行天皇は『播磨国風土記』にも求婚説話の主人公として登場する人物です。

Q&A

Q訪問すれば『播磨国風土記』の原本を見ることはできますか。
A保存上の理由から原本は常設展示されていません。ただし、天理図書館や天理参考館、あるいは全国の主要博物館で開催される特別展において、数年に一度程度の頻度で公開されることがあります。精巧な複製が展示されることもあります。
Q記された内容は兵庫県のものなのに、なぜ奈良県の図書館にあるのですか。
A記述の対象は播磨国、つまり現在の兵庫県南西部です。奈良県にあるのは、この写本が京都の公家・三条西家に長く伝来し、二十世紀になって天理図書館の所蔵となったという伝来上の経緯によるものです。
Q写本自体はどのくらい古いものですか。
A巻物そのものは平安時代末期、およそ十二世紀後半頃に書写されたものと考えられています。ただし、その内容である原典の『播磨国風土記』は、七一三年から七一五年頃の奈良時代初期に編纂されたものです。
Q専門家でなくても価値を感じられるのはどのような点ですか。
A今の兵庫県に残る多くの地名の由来が、この巻物の物語によって説明されている点です。また、日本酒に関する日本最古の文献記録を含み、中央の史書とは異なる地方の視点を伝える点でも、広く一般の方にも魅力的な一冊といえます。
Q現代語訳は手に入りますか。
A岩波書店の「日本古典文学大系」、小学館の「新編日本古典文学全集」、近年では講談社学術文庫など、詳細な注釈を備えた校訂本や訳注書が広く刊行されており、書店や図書館でお求めになれます。

基本情報

名称 播磨国風土記(はりまのくにふどき)
指定 国宝(書跡・典籍)/昭和四十(1965)年五月二十九日指定
員数 一巻
年代 原典は奈良時代初期(713〜715年頃)編纂/現存写本は平安時代末期(十二世紀後半頃)書写
所在地 天理大学附属天理図書館(奈良県天理市杣之内町1050)
所有者 学校法人天理大学
伝来 三条西家旧蔵(三条西家本)
アクセス JR・近鉄天理駅より徒歩およそ二十〜二十五分。利用は十五歳以上。原本は常設展示されていません。

参考文献

文化遺産オンライン(文化庁)― 播磨国風土記
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/148848
Wikipedia(日本語)― 播磨国風土記
https://ja.wikipedia.org/wiki/播磨国風土記
Wikipedia(日本語)― 天理大学附属天理図書館
https://ja.wikipedia.org/wiki/天理大学附属天理図書館
播磨国風土記デジタルライブラリー(播磨広域連携協議会)
https://www.harima-united.jp/column/digital-library/
加西市 ― 播磨国風土記の里 加西
https://www.city.kasai.hyogo.jp/site/fudoki/
兵庫県 ― 播磨国風土記
https://web.pref.hyogo.lg.jp/chk12/c_harima/area_00007.html
天理市観光協会 ― 天理大学附属天理図書館
https://kanko-tenri.jp/tourist-spots/center/tenritoshokan/
国宝-書跡典籍|播磨国風土記(WANDER 国宝)
https://wanderkokuho.com/201-00765/

最終更新日: 2026.04.24