菱作打刀〈中身無銘〉—「打刀」の名が史に刻まれた国宝

奈良・春日大社。藤原氏の氏神を祀り、平安の王朝文化を今に伝えるこの古社に、一見すると慎ましやかな一口の刀が伝えられています。黒漆地に金象嵌で四つ目花菱紋を散らした拵、総長わずか72.7センチ。しかしこの小さな刀の内に、日本刀の歴史を一変させた決定的な意義が宿っています。国宝「菱作打刀〈中身無銘〉」は、付属する杉箱の蓋裏に記された至徳2年(1385年)の奉納銘により、「打刀」と呼ばれた最古の確実な事例として知られる、文字通りその名を歴史に刻んだ名品です。

奉納したのは前参議・葉室長宗(はむろ ながむね)。藤原氏勧修寺流に連なる公卿が、氏神である春日の神に捧げた一口は、刀身は平安時代頃、拵は南北朝時代のもの。腰に吊る太刀から腰に差す打刀へと日本刀が姿を変えていく、その転換点のまさに始点に位置する一口として、刀剣史の上で特別な光を放ち続けています。

歴史的背景

春日大社は神護景雲2年(768年)、称徳天皇の勅命により、藤原氏の氏神を祀る社として創建されました。第一殿に祀られる武甕槌命(たけみかづちのみこと)は武神としての性格を併せ持ち、古来、武勇を重んじる人々から篤い信仰を集めてきました。平安時代以降、皇族・貴族・武士たちは、その信仰の証として膨大な宝物を春日の神に奉納。所蔵する文化財の多くが平安時代の宝物であることから、春日大社の宝物群は「平安の正倉院」とも称されています。なかでも刀剣・甲冑類は質量ともに圧倒的で、所蔵刀剣のうち8件25点が国宝に指定されています。

刀身について

菱作打刀の刀身は無銘で、作者や正確な制作時期は判明していません。春日大社の展示解説では、刀身は平安時代のものと位置づけられており、拵よりも古い時代に作られた一口が、南北朝期に新たな拵に収められて奉納された、と考えられています。古い拵えのなかには古い刀身が今も静かに眠っていますが、拵全体が非常に繊細な状態で伝わっているため、中身を抜き取って単独で鑑賞することは困難とされます。

奉納者・葉室長宗

付属する杉箱の蓋裏には、至徳2年正月22日に葉室長宗によって奉納されたことを示す墨書があります。葉室家は藤原氏勧修寺流の公家で、長宗は前参議の地位にあった人物。南北朝の動乱期という不安定な時代にあって、氏神へ一口の刀を捧げるという行為は、一公卿の篤い信仰心の表れであると同時に、藤原氏の結束と国家安寧への祈りが込められた、格式ある奉納であったと考えられます。

国宝に指定された理由

菱作打刀は、昭和31年(1956年)6月28日に国宝に指定されました。この小さな一口が国の宝とされた理由は、大きく三つに整理できます。

第一に、刀剣史における「用語の起点」としての価値です。付属する杉箱の蓋裏に記された「菱作打刀」という奉納銘は、「打刀」という呼称の最古の確実な文献事例として広く知られています。類似の形式を持つ刀はそれ以前から存在していたと考えられますが、同時代にその刀がどう呼ばれていたかを確定できたのは、この一口のおかげなのです。いわば、ひとつの刀剣カテゴリーの名を史料的に裏付ける唯一無二の証人と言ってよいでしょう。

第二に、室町時代に流行する打刀の先駆をなす作例であること、という形式史上の意義です。腰から刃を下向きに吊るす太刀から、腰に刃を上向きに差す打刀へ——この変化は戦場における武士の戦い方そのものの変化と結びついており、その最先端に位置する作品として、本作は刀剣研究において動かすことのできない位置を占めています。

第三に、拵(こしらえ)としての完成度の高さです。総じて製作が優れ、意匠も見るべきものが多い、と指定の説明にも記されている通り、黒漆、金象嵌、銀覆輪、透彫金具など、多彩な工芸技術が一口のなかに凝縮されています。さらに、奉納銘を持つ杉箱そのものが附(つけたり)として国宝に合わせて指定されており、容器ごと国宝として扱われる点も、この作品の特別さを物語ります。

見どころ

黒漆地に映える四つ目花菱紋

本作の最大の視覚的特徴は、柄と鞘の全面に散らされた四つ目花菱紋(よつめはなびしもん)です。菱形の花弁四枚を中心点から放射させた幾何学的な紋様で、平安時代以来の有職文様の系譜に連なります。本作では、この紋様が黒漆地の上に金象嵌として冑金(かぶとがね)、鞘筒金、鐺(こじり)、柄や鞘の覆輪など、拵の要所に施されています。黒と金の対比が生み出す落ち着いた華やかさは、南北朝期の貴族的美意識を今に伝えるものと言えます。

工芸技術の凝縮

菱紋装飾の陰に隠れがちですが、本作には驚くほど多彩な金工技法が駆使されています。指定書には、総金具は山金地に銀小縁、目貫・座金は花菱紋透彫鍍銀、栗形は銀の竹節形丸彫、鐔は倒卵形で山金地に板金の金覆輪と、極めて細やかに記録されています。なかでも注目したいのが鎺(はばき)で、金鍍金の表裏に梵字が毛彫(けぼり)で表されています。奉納刀としての性格を踏まえた、仏教的な護りの意匠が細部にまで行き届いている点は、本作の格の高さを物語ります。

奉納時の姿をほぼ完存

14世紀後半の刀剣の拵が、金具一式を伴って当初の姿に近い形で伝わる例は極めて稀です。中世から近世を経て、多くの刀は研ぎ直され、拵は取り替えられ、刀身そのものが磨上げ(まげあげ)によって姿を変えてしまっています。それに対して本作は、葉室長宗が春日の神に捧げた至徳2年当時の姿を、ほとんどそのまま今に伝えているとされます。まさに600年以上の時を静かに越えてきたタイムカプセルのような存在です。

拝観のご案内

菱作打刀は、春日大社の境内にある春日大社国宝殿で管理・展示されています。国宝殿は平成28年(2016年)に春日大社宝物殿をリニューアルオープンした施設で、水と光で春日の聖域を表現した導入空間「神垣(かみがき)」や、若宮おん祭で用いられる日本最大級の鼉太鼓(だだいこ)を展示する鼉太鼓ホールなど、見応えのある常設展示を備えています。

ただし、刀剣類は保存の観点から常設展示ではなく、テーマを定めた特別展の際に公開される形が中心です。本作は比較的公開機会の多い所蔵品ではありますが、訪問前には必ず春日大社の公式ウェブサイトで現在の展示内容をご確認ください。冬から春にかけての刀剣・武具を特集する特別展で展示されることが多いようです。

拝観料や開館時間、撮影の可否などは特別展ごとに変更となる場合がありますので、最新の情報は国宝殿の公式ページや春日大社の案内をご参照ください。

周辺のおすすめスポット

春日大社への参道は、平安末期から奉納されてきた約3,000基の石燈籠が立ち並ぶ壮観な道で、奈良公園に棲む神鹿たちが参拝者を静かに出迎えてくれます。菱作打刀の鑑賞と併せて、ぜひ春日の森そのものを歩いて楽しんでいただきたい場所です。

徒歩圏内には、東大寺の大仏殿や南大門の金剛力士像、藤原氏の氏寺として創建された興福寺の五重塔と国宝館、そして仏教美術の一大拠点である奈良国立博物館が点在しています。奈良国立博物館では春日大社の所蔵品を取り上げる特別展が開催されることもあり、時期によっては菱作打刀を含む春日の至宝が同館で公開されることもあります。若草山からは古都奈良を一望でき、若宮神社へ続く参道の杉並木は境内でもとりわけ静謐で神秘的な空気が漂う一画です。まる一日、あるいは二日かけて、この一口の刀を生み育てた信仰と自然の景観を丸ごと体験されることをおすすめします。

Q&A

Qなぜこの刀はそれほど重要とされるのですか。
A付属する杉箱の蓋裏に記された奉納銘「菱作打刀」が、「打刀」という呼称の最古の確実な文献事例であるためです。刃を上向きに腰に差す打刀は、やがて武士の主要な差料となり、現代に続く日本刀「刀(カタナ)」の直接の源流となる刀剣カテゴリーです。本作はその名称の史料的起点に位置するという、他に代えがたい意義を持っています。
Q誰が、いつ春日大社に奉納したのですか。
A至徳2年(1385年)正月22日、前参議・葉室長宗によって奉納されました。葉室家は藤原氏勧修寺流に連なる公家で、南北朝の動乱期にあって氏神である春日大社に一口を捧げた行為には、個人の信仰と藤原氏の結束を象徴する格式高い祈念が込められていたと考えられます。
Q刀身は見ることができるのですか。
A残念ながら、拵全体が非常に繊細な状態で伝えられているため、刀身を抜き取って単独で鑑賞することは困難です。展示でご覧いただけるのは、拵に収まった全体の姿となります。刀身単体の鑑賞が主流の現代の刀剣展示とは一味違う、奉納当時の姿のまま伝わる貴重な作例としてお楽しみください。
Q「四つ目花菱紋」とはどのような紋様ですか。
A中心の一点から菱形の花弁を四方に放射させた幾何学的な紋様で、平安時代以来、貴族の装束や工芸品に愛用されてきた「菱」の紋様の一種です。本作では黒漆地に金象嵌として散らされており、控えめでありながら格調の高い、南北朝期の洗練された美意識を体現しています。
Qいつでも展示されていますか。
Aいいえ、刀剣は保存上の理由から常設展示ではなく、テーマを定めた特別展の折に公開される形となります。本作は春日大社所蔵刀剣のなかでは比較的公開機会の多い部類ですが、訪問前には必ず国宝殿の公式ページで展示内容をご確認いただくことをおすすめします。

基本情報

指定名称 菱作打刀〈中身無銘〉
分類 国宝(工芸品・武具)
時代 刀身:平安時代/拵:南北朝時代。至徳2年(1385年)奉納
員数 1口
寸法 総長72.7cm、鞘長52.4cm、柄長20.3cm
品質・形状 柄・鞘ともに黒漆地に四つ目花菱紋散。山金地の総金具に銀小縁を施し、冑金・鞘筒金・鐺・覆輪に四つ目花菱紋の金象嵌。目貫・座金は花菱紋透彫鍍銀。栗形は銀の竹節形丸彫。鎺は金鍍金で表裏に梵字の毛彫。
附指定 杉箱(蓋裏に至徳2年正月22日葉室長宗奉納の墨書あり)
所有者 春日大社
国宝指定年月日 昭和31年(1956年)6月28日
所在地 〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 春日大社国宝殿
国宝殿開館時間 10:00〜17:00(受付終了16:30)。展示替期間中は休館
国宝殿拝観料 一般700円、大学・高校生400円、中・小学生300円(特別展により変更の場合あり)
アクセス JR奈良駅または近鉄奈良駅から奈良交通バス「春日大社本殿」行で約11〜15分、「春日大社本殿」下車。境内を徒歩で国宝殿へ。

参考文献

文化遺産データベース(文化庁)— 菱作打刀〈中身無銘/〉
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/150071
春日大社国宝殿 特別公開「刀剣の美を楽しむ」
https://www.kasugataisha.or.jp/museum_exhibitions/15770/
春日大社国宝殿 主な収蔵品
https://www.kasugataisha.or.jp/museum/takaramono/
WANDER 国宝 — 国宝-刀剣|菱作打刀(中身無銘)
https://wanderkokuho.com/201-00486/
春日大社 公式サイト
https://www.kasugataisha.or.jp/
奈良市観光協会 — 春日大社
https://narashikanko.or.jp/spot/detail_10058.html
Weblio辞書 — 菱作打刀(国指定文化財等データベース)
https://www.weblio.jp/content/菱作打刀

最終更新日: 2026.04.24