地中に埋もれなかった二枚の鉄盾

古墳時代の鉄製品の多くは、墳丘から掘り出された断片として現代に届く。千数百年を地中で過ごすあいだに錆び、もとの姿を失っていることも珍しくない。奈良県天理市の石上神宮に伝わる二枚の鉄盾は、これとは異なる経路をたどった。墓に副葬されて後世に発掘されたのではなく、神宮の神庫(ほくら)に納められ、神職の手から手へと地上で受け継がれてきた伝世品である。この一点だけでも、同時代に残る他の鉄製品とは性格を異にする。

社伝では「日の御盾(ひのみたて)」と称される。いずれも一メートルを大きく超える本格的な防具であり、装飾用の小型品ではない。鉄製の武具が権威の象徴として用いられはじめた時期に作られたものと考えられている。

製作年代は古墳時代に置かれる。多くの見解は五世紀末から六世紀初頭とするが、石上神宮自身の解説は五世紀後半に近い時期を示している。いずれも、日本列島の鍛鉄技術がこれほどの大きさの製品を生み出せるまでに成熟した、同じ時代の幅を指している。

どのように作られたか

鉄盾は、幅七センチ前後の細長い鉄板を多数並べ、鋲で留めて一枚の盾面に仕上げてある。一枚の鉄板を打ち延ばしたものではなく、多くの板を継ぎ合わせて構成した点に特徴がある。

輪郭にも目を向けたい。単純な長方形ではなく、中央部で幅がやや締まり、上下に向かってふたたび広がる。この形は、同じ時代の木盾や革盾にも見られる盾の姿を踏まえている。大きい方の全長はおよそ百四十三センチ、小さい方はおよそ百三十九センチ。上部・中央・下部で幅が異なり、まっすぐな帯状ではなく、ゆるやかに括れる輪郭をもつ。

盾面には、直角に折れ曲がって組み合う幾何学的な文様、鍵手文(かぎてもん)が施されている。一部の木盾や革盾にも用いられた文様で、鉄盾では絵具で描くのではなく、鉄板と鋲の配置のなかに表現しなければならなかった。この点が、二枚を見くらべる際の手がかりになる。

指定の理由と価値

二枚は昭和二十四年(一九四九年)五月三十日、考古資料として重要文化財に指定された。その価値は、ある種の希少性に支えられている。鉄は錆びやすく、今日研究できる古墳時代の鉄製品の大半は、断片として地中から取り出されたものである。千数百年にわたって地上で守られてきた、ほぼ完全な形の鉄盾は例外的な存在といえる。錆びた破片から復元するのではなく、初期日本の防具の構造そのものを実見できる資料となっている。

副葬品ではなかったため、二枚は石上神宮そのものとの結びつきも保っている。神宮は、古代の朝廷の一種の武器庫であったと古い記録に記される。古墳時代の武器資料として、わが国に残る同種の遺品のなかでも屈指の一例として扱われている。

細部を見る ― 二枚の違い

一見すると二枚はよく似ている。細部に目を凝らすと違いが現れる。神宮に保管される方は鍵手文をよく理解して作られており、制作の手順が規則的で、鋲の直径は五ミリと三ミリの二種が混在し、鉄板の厚さは約二・四ミリである。

現在は東京国立博物館が保管する方は、これにくらべると作りがやや緩い。鍵手文の理解が十分でなく、制作手順に規則性が乏しく、鋲の直径は五〜六ミリでほぼ一定し、鉄板の厚さは約三ミリと、相手より二割ほど厚い。研究者はこれらの特徴から、東博保管の方が神宮保管の方より少し後に作られたと読み取っている。

中世にまでさかのぼる説もある。石上神宮では、強訴などの際に鉄盾を持ち出すことがあり、その過程で破損・廃棄されることがあった。この説によれば、厚い方の盾は、破損した盾を補うため、古墳時代の古い一枚を手本として後に作られた補作だという。確定した事実ではなく一つの仮説として示されているが、これらの品がいかに長く実用に供されつづけたかをうかがわせる。

元禄十二年(一六九九年)成立の『石上大明神縁起 坤』については、盾はもと三枚あり一枚が失われたとする読み方がある一方、同じ伝承の系譜は現存する二枚を「日の御盾」と称している。記述は完全には一致しないが、確実にいえるのは、今日二枚が残り、いかなる記録よりも古い名と記憶を帯びているということである。

盾を守ってきた社

石上神宮は『古事記』『日本書紀』の双方に名の見える、日本でも有数の古社である。古い伝承は、祭祀にとどまらない役割を神宮に与えてきた。すなわち、古代の朝廷の武器を収める庫であり、その管理は有力な物部氏が担っていたと伝えられる。神宮には長く本殿がなく、大正二年(一九一三年)に本殿が造営されるまで、信仰は拝殿の背後にある禁足地を中心に営まれてきた。明治七年(一八七四年)にその一部が開かれた際には、剣・鉾・玉類が出土している。

境内はゆっくりと歩く価値がある。拝殿は鎌倉時代の国宝であり、摂社出雲建雄神社の拝殿も同じく国宝に指定されている。楼門は重要文化財である。鉄盾を守ってきたのと同じ神庫の伝統は、国宝の七支刀(しちしとう)をも伝えてきた。境内には神使である鶏が放し飼いにされ、はじめて訪れる人を少し驚かせる。

神宮は、日本最古の道ともいわれる山の辺の道に面している。この道は奈良盆地の東縁を縫い、古い社や古墳のあいだを通っている。北には布留川が流れ、周囲には大和の古墳群が広がる。ここを歩くことは、この鉄盾を生んだ風景のなかを歩くことにもなる。

訪れる前に

鉄盾の前に立ちたいと願う人へ、現実的な一言を添えておきたい。神宮に宝物館はなく、鉄盾は常時公開されていない。石上神宮が保管する一枚は展示ではなく保管されており、もう一枚は東京の東京国立博物館が管理している。博物館の考古資料は平成館の日本考古展示室で入れ替えながら紹介されるため、常設ではなく、時期によって公開される場合がある。

とはいえ、それで足を運ぶ意義が薄れるわけではない。境内は自由に参拝でき、二棟の国宝の建物、重要文化財の楼門、放し飼いの鶏など、それ自体に見どころが多い。鉄盾そのものを見ることを目的とするなら、出向く前に東京国立博物館の展示予定を確認するとよい。神宮への参拝は、これらの品を千数百年にわたって運んできた場所と伝統に出会う機会となる。

Q&A

Q石上神宮で鉄盾を見ることはできますか。
A原則として見られません。神宮に宝物館はなく、保管されている一枚も常設展示されていません。鉄盾そのものではなく、神宮の国宝建築を目当てに参拝計画を立てるのがよいでしょう。
Qもう一枚の盾はどこにありますか。
A小さい方は東京国立博物館が管理しています。同館の考古資料は平成館の日本考古展示室で入れ替えながら紹介されるため、時期によって公開される場合があります。出向く前に同館の展示予定を確認してください。
Qこの鉄盾はなぜ重要なのですか。
A古墳時代の鉄製品のほとんどは断片として出土します。この二枚は千数百年にわたり地上で受け継がれ、ほぼ完全な形を保っています。初期日本の防具がどのように作られたかを実見できる、希少で貴重な資料です。
Qいつ頃のものですか。
A古墳時代に属します。多くの見解は五世紀末から六世紀初頭とし、石上神宮の解説は五世紀後半に近い時期としています。
Q神宮では他に何が見られますか。
A鎌倉時代の拝殿と摂社出雲建雄神社の拝殿はいずれも国宝、楼門は重要文化財です。神宮は国宝の七支刀でも知られる社であり、歴史ある山の辺の道に面しています。

基本情報

名称鉄盾(てつたて)二枚
所在地奈良県天理市布留町 石上神宮
指定区分重要文化財(考古資料) 昭和二十四年(一九四九年)五月三十日指定
時代古墳時代(一般に五世紀末〜六世紀初頭とされる)
寸法大きい方は全長約一四三・三センチ、小さい方は約一三九・四センチ。幅七センチ前後の鉄板を鋲で留めて構成
保管大きい方は石上神宮、小さい方は東京国立博物館に寄託
公開状況常時公開なし。神宮に宝物館はない。境内は自由に参拝可能

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「鉄盾」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9676
天理市「七支刀・鉄盾」
https://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/bunkazai/1391413782942.html
石上神宮 公式サイト「ご由緒【宝物】」
https://www.isonokami.jp/about/c4.html
奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」石上神宮
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main10615.html
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/

最終更新日: 2026.06.14