川原寺跡 ― 大理石礎石が残る飛鳥の幻の大寺

明日香村川原の南側、約7万3千平方メートルの史跡公園に、白と灰のまだら模様を浮かべた28個の石が整然と並んでいる。これが川原寺中金堂跡の礎石である。寺伝では古来「瑪瑙の礎石」と呼ばれてきたが、近年の調査で石材は大理石と判明した。日本国内で大理石の礎石を据えた寺院は、後にも先にもこの川原寺だけである。

大正10年(1921)3月3日に国の史跡に指定され、その後昭和41年(1966)、昭和63年(1988)に追加指定が行われた。現在は構成資産の一つとして、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の登録に向けた審査が進められている。

創建をめぐる五つの説

川原寺の創建年について、史料が一致した答えを示すことはない。古くから敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、同7年説、天武朝説、宝亀5年(774)説の五つが並び立ってきた。最もよく語られるのは、天智天皇が母である斉明天皇の菩提を弔うため、母が営んだ川原宮の跡地に建立したという伝承である。発掘調査では境内地から創建期より古い建物遺構が検出されており、これを川原宮そのものと見る説もある。

確かなのは、天武天皇2年(673)3月の時点で寺院として機能していたことだ。『日本書紀』のこの月の条には「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。書生を集めて一切経の写経が始められた、というこの記述は、日本における大規模な写経事業の最初の記録とされる。

天武天皇とのつながりは深い。同14年(685)、天皇の病気平癒のため大官大寺・川原寺・飛鳥寺の三寺に勅命で経典の読誦が行われた。新羅からの使節を饗応するために川原寺の伎楽を筑紫まで運んだ記録もあり、寺が独自の伎楽団を抱えていたことがわかる。天武天皇崩御の翌年、持統天皇が五寺で無遮大会を執り行った際にも川原寺の名が挙げられている。

一塔二金堂式 ― 川原寺式伽藍配置

昭和32年(1957)から昭和34年(1959)にかけて実施された奈良国立文化財研究所による発掘調査は、川原寺の特異な伽藍を明らかにした。南大門を入った中門の左右から回廊が伸び、方形に区画された境内の北辺中央に中金堂が建つ。回廊で囲まれた前庭の東に五重塔、西に西金堂が向かい合うように配置されていた。

南面を正面とするのが日本古代寺院の通例だが、川原寺の西金堂は東を向き、塔と対面していた。この左右非対称の配置は他に類例が乏しく、近江大津宮造営時の南滋賀廃寺、筑紫の観世音寺などに見られる程度で、後に「川原寺式伽藍配置」と呼ばれるようになった。中金堂の背後には講堂が控え、講堂の北・東・西の三方を僧坊が囲んでいた。

寺域は南北約300メートル、東西200メートル超に及び、当時の飛鳥寺に匹敵する規模であった。

大理石の礎石と複弁蓮華文の瓦

中金堂の柱を支えていた28個の礎石は、いずれも白い大理石を切り出したもの。寺伝が「瑪瑙」と呼んできたためその通称が今も用いられるが、石質の鑑定によりこれらは大理石であることが確認されている。中金堂は正面三間、側面二間の母屋の四周に、建具も壁も入れない吹き放ちの庇をめぐらせた開放的な仏堂であった。

境内から出土する創建期の軒丸瓦は、八枚の花弁をそれぞれ二つに割った「複弁蓮華文」と呼ばれる文様を持つ。複雑で華麗なこの瓦文様は川原寺で初めて採用され、以後一世紀にわたって日本の寺院瓦の主流となった。

もう一つ重要な発見が、中金堂の北裏手の小丘から検出された川原寺裏山遺跡である。ここでは三尊形式の塼仏が千点を超え、塑像の断片も数百点出土した。一部には金箔が貼られていた痕跡があり、創建当初の堂内では金色に輝く小型仏像が壁面を覆っていた可能性が指摘されている。出土品の主要なものは、近隣の飛鳥資料館で公開されている。

衰亡と弘福寺への継承

飛鳥四大寺と呼ばれた大官大寺、薬師寺、飛鳥寺(法興寺)はいずれも平城遷都の前後に新都へ移建されたが、川原寺だけは飛鳥の地に残った。理由は今も明確になっていない。

9世紀に火災に遭った後、真言僧の聖宝によって復興された。聖宝は後に醍醐寺を開いた人物である。さらに12世紀末、鎌倉時代初頭に再び焼失し、往時の大伽藍は失われた。現在、中金堂跡には弘福寺の本堂が建ち、川原寺の名は同寺の山号や別称として受け継がれている。境内では写経体験を受け付けており、1300年以上前にこの地で始まった日本最初の写経の伝統が、今も細々と続いている。

弘福寺の堂内には、平安時代の木造持国天立像・多聞天立像(いずれも国指定重要文化財)、十二神将像が安置されている。二天像は寺伝では弘法大師空海の作とされるが、制作年代についてはなお検討の余地がある。

史跡公園を歩く

南大門跡から中門、回廊、中金堂、西金堂、塔基壇、講堂跡へと、伽藍の主要な位置には解説板と復元整備が施され、歩きながら一塔二金堂の配置を実感できる。中金堂跡の弘福寺本堂に入れば、現役の堂の床下に大理石の礎石を間近で見ることができる。

県道155号を挟んだ南側には聖徳太子生誕の地と伝わる橘寺、東へ少し歩けば石舞台古墳、北方には飛鳥宮跡と飛鳥寺、徒歩圏内に飛鳥資料館がある。水田と低い丘に囲まれた風景の中で、北方には天香久山の輪郭が見える。古代の宮都の地形がほぼそのまま残された、日本でも数少ない場所である。

Q&A

Q建物は残っているのですか。
A創建期の建物は焼失して残っていませんが、基壇と礎石、伽藍配置がよく保存され、復元整備された史跡公園として歩くことができます。中金堂跡には弘福寺の本堂が建ち、拝観料を納めれば堂内に入って大理石礎石を見ることができます。
Q大理石の礎石はなぜ珍しいのですか。
A日本の古代寺院では花崗岩などの硬い石材を礎石に用いるのが通例で、大理石を採用した例は川原寺以外に知られていません。中金堂跡に28個が現存します。寺伝では「瑪瑙」とされてきましたが、石材分析の結果、大理石であることが確認されています。
Q見学にどれくらい時間が必要ですか。
A史跡公園内を一周し、礎石を見て弘福寺を拝観するなら45分から1時間ほどが目安です。写経体験を予約された場合はさらに1時間程度を見込んでください。
Qアクセス方法を教えてください。
A近鉄飛鳥駅または橿原神宮前駅から飛鳥周遊バス(赤かめバス)に乗車し、「川原」バス停で下車、徒歩約2分です。飛鳥駅からは約12分、橿原神宮前駅からは約30分の道のりです。飛鳥駅前のレンタサイクルを利用して周辺の遺跡と組み合わせる方も多くいます。
Q世界遺産には登録されていますか。
A現時点では登録されておらず、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産の一つとして登録に向けた審査が進行中です。2026年の世界遺産委員会で登録の可否が決定される見通しとなっています。

基本情報

名称川原寺跡(かわらでらあと)
所在地奈良県高市郡明日香村川原
指定区分国指定史跡(大正10年〔1921〕3月3日指定、昭和41年〔1966〕6月21日・昭和63年〔1988〕3月14日追加指定)
指定基準三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
指定面積73,839平方メートル
時代7世紀(飛鳥時代)
後継寺院仏陀山弘福寺(真言宗豊山派)
拝観時間9:00〜17:00(弘福寺)
拝観料弘福寺拝観有料(料金は事前に要確認)
アクセス近鉄飛鳥駅または橿原神宮前駅から赤かめバスで「川原」下車、徒歩約2分

参考文献

国指定文化財等データベース「川原寺跡」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1932
明日香村公式ホームページ「【29】川原寺跡(国指定史跡)」
https://www.asukamura.jp/gyosei_bunkazai_shitei_29.html
奈良県観光公式サイト「川原寺跡 弘福寺」
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/03east_area/kawaharadera/
公益財団法人 古都飛鳥保存財団「川原寺(弘福寺)」
https://www.asukabito.or.jp/spot_16.html
世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会
https://asuka-fujiwara.jp/
川原寺跡 弘福寺 公式サイト「アクセス」
https://kawaharadera.com/access/

最終更新日: 2026.05.28