御蓋山に広がる9.3ヘクタールの純林
春日大社の本殿と若宮神社の東側、御蓋山(みかさやま)の中腹から山麓にかけて、約9.3ヘクタールの森が広がっている。樹種はただ一つ、ナギ。マキ科ナギ属の常緑樹である。これほどの規模で他の樹木をほとんど含まない純林を形成している例は世界的にも珍しい。
大正12年(1923年)3月7日、この森は「春日神社境内ナギ樹林」として国の天然記念物に指定された。指定当時、当社は「春日神社」と称しており、現在の「春日大社」への改称(昭和21年)よりも前のため、文化財登録名称は今もそのまま「春日神社」を用いている。
ナギの本州における自生北限は山口県山口市(旧小郡町)の山林とされる。つまり、奈良の地は本来ならナギが自然分布しない緯度にある。にもかかわらず御蓋山の斜面には壮大な純林が成立している。この事実こそが、樹林の謎であり、価値である。
千年以上前に植えられた神木
研究者の見解はおおむね一致している。春日大社境内のナギは、自生のものではない。神聖な木として古代に献木・植樹され、世代を重ねて自然繁殖した結果、ついには純林にまで広がった——そう考えられている。植樹の時期は1,000年以上をさかのぼると推定されており、鎌倉時代の文献には既に春日山にナギの群落が形成されていた様子が窺える。
ナギは春日大社にとって、榊(さかき)と並ぶ神事の木である。毎年3月13日に営まれる春日祭、12月15日から18日にかけて執り行われる春日若宮おん祭では、ナギの生木が鳥居や山車に立てられ、神威の依り代となる。
信仰と植生が、千年以上にわたって連動してきた。これは単なる森ではなく、人と神と植物の関係が物質として残った稀有な記録である。
指定理由——稀有の森林植物相
天然記念物としての指定基準は「(二)代表的原始林、稀有の森林植物相」。当時の天然紀念物調査報告(植物之部)には、「竹柏(ちくはく)ノ純林トシテ稀有ノモノナリ」と記されている。ナギは漢字で「竹柏」とも表記された。
ナギの純林が成立している鍵は、ナギ自身が放出する化学物質「ナギラクトン」にある。この物質は周囲の植物の発芽・生育を抑制する作用(アレロパシー)を持ち、ナギの根もとには他の樹種がほとんど育たない。さらに奈良公園に約1,300頭生息する鹿は、ナギの葉が硬く苦みを含むため口にしない。他の植物の若芽が食害で次々と消える中、ナギだけが食害を免れる——この二重の仕組みが、純林を維持し、近年はむしろ拡大させている。
背後に広がる特別天然記念物「春日山原始林」は、本来カシやシイを主体とした照葉樹林であるが、近年ナギが原始林側へ進出する現象が確認されており、植物社会学・保全生態学の両面から注目を集めている。
葉と実、そして縁結びの伝承
ナギは針葉樹に分類されながら、葉の見た目はまったく違う。長さ4〜6センチほどの楕円状被針形で平たく、幅広い。葉脈が縦に平行に走り、両端を引っ張ってもなかなかちぎれない。乾燥するとさらに強くなる。
この「縁が切れない」性質から、ナギは古くから縁結びの木とされてきた。新婚の女性が手鏡の裏にナギの葉を忍ばせ、夫婦円満を願う習わしが各地に伝わる。源頼朝と北条政子がナギの木の下で愛を誓ったという伝承も、こうした連想から生まれたものだろう。葉裏と葉表の区別がほとんどないことから「裏表のない夫婦生活」を象徴するとも語られた。
雌雄異株で、5月頃に開花、10月頃には雌株に丸く青白色の実が熟す。雄株と雌株が交じり合う斜面を歩けば、季節によって異なる姿に出会える。
境内最大のナギは推定樹齢約850年。本殿東側、若宮神社の近くに立つこの巨樹は、平成9年(1997年)4月16日に奈良市指定文化財(天然記念物)として別途指定を受けた。樹冠が広がる範囲に合わせて20メートル四方の生育地が保護対象に含まれている。
樹林を訪ねる——歩き方と周辺
ナギ樹林の指定範囲は春日大社の社叢にあたり、本殿参拝の際に参道沿いや回廊の外側から自然に観察できる。樹林の核心部は御蓋山中腹の禁足地に含まれるため立ち入りはできないが、若宮神社のある春日大社境内南側エリアと、本殿東側周辺で、ナギの大木が点在する様子をじっくり見ることができる。
春日大社そのものが見どころに事欠かない。神護景雲2年(768年)創建、全国に約3,000社あるとされる春日神社の総本社で、平成10年(1998年)にはユネスコ世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成資産となった。朱塗りの楼門と回廊、約3,000基の燈籠が並ぶ参道、20年に一度の式年造替で美しさを保つ国宝御本殿4棟、約300種類の万葉集ゆかりの草花を集めた萬葉植物園、国宝354点・重要文化財2,528点を収蔵する国宝殿——一日かけても回りきれない。
そのまま春日山遊歩道を歩けば、特別天然記念物・世界遺産でもある春日山原始林に分け入ることもできる。約9.4キロの遊歩道は、ナギ樹林とはまた異なる照葉樹林の世界を案内してくれる。
Q&A
- ナギ樹林はどこから観察できますか。
- 春日大社の参道沿いや本殿東側、若宮神社周辺から自然に観察できます。指定範囲の核心部は御蓋山の禁足地に含まれるため立ち入りはできませんが、境内のいたるところでナギの巨樹に出会うことができます。
- ナギは針葉樹ですか、広葉樹ですか。
- 分類上はマキ科ナギ属の常緑針葉樹です。ただし葉は楕円状被針形で平たく、葉脈も縦に平行に走るため、見た目はむしろ広葉樹に近い独特の姿をしています。針葉樹の中でも特殊な存在といえます。
- なぜナギだけの純林ができたのですか。
- ナギは「ナギラクトン」というアレロパシー物質を放出して周囲の植物の生育を抑制します。さらに奈良公園の鹿はナギの葉を食べないため、他の樹木の若芽だけが食害で減っていきます。この二つの作用が長い時間をかけて純林を形作りました。
- 境内で一番古いナギの樹齢はどれくらいですか。
- 本殿東側、若宮神社の近くに立つ巨樹は推定樹齢約850年とされ、平成9年(1997年)に奈良市指定文化財(天然記念物)として別途指定されています。樹冠の広がりを目途に20メートル四方の生育地も合わせて保護されています。
- いつ訪れるのが良いですか。
- 常緑樹のため一年を通して観察できますが、3月13日の春日祭、12月15日から18日の春日若宮おん祭では神事にナギの生木が用いられるため、信仰と樹木のつながりを感じる絶好の機会となります。10月には雌株に青白色の実が熟す姿も見られます。
基本情報
| 名称 | 春日神社境内ナギ樹林(かすがじんじゃけいだいなぎじゅりん) |
|---|---|
| 指定区分 | 国指定天然記念物 |
| 指定年月日 | 大正12年(1923年)3月7日 |
| 指定基準 | (二)代表的原始林、稀有の森林植物相 |
| 面積 | 約9.3ヘクタール |
| 樹種 | ナギ(Nageia nagi、別名チクハク/竹柏)マキ科ナギ属の常緑樹 |
| 所在地 | 奈良県奈良市春日野町 |
| 管理団体 | 春日大社 |
| アクセス | JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から奈良交通バス(春日大社本殿行)約11〜15分、「春日大社本殿」下車すぐ。または奈良交通バス(市内循環外回り)約9〜13分、「春日大社表参道」下車徒歩約10分。 |
| 関連世界遺産 | 「古都奈良の文化財」(1998年登録)の構成資産・春日大社境内に所在 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース「春日神社境内ナギ樹林」(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1947
- 文化遺産オンライン「春日神社境内ナギ樹林」
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/217039
- 奈良市ホームページ「春日大社境内のナギ巨樹」
- https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/8348.html
- 春日大社公式サイト
- https://www.kasugataisha.or.jp/about/
- 奈良県観光公式サイト「あをによし なら旅ネット」春日大社
- https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/008world/kasugataisha/0000000248/
最終更新日: 2026.05.16