糸魚川の町なかに立つ平安の観音

糸魚川駅から内陸へ歩いて数分、市役所の向かいに天津神社の社号標が立っている。その傍らにあるのが、高野山真言宗の宝伝寺である。大きな山門も駐車場もない小さな寺だが、境内の観音堂に、国が大正12年(1923年)から守ってきた一躯の木彫像が安置されている。

像は十一面観音。本面の頭上にいくつもの小さな顔をいただく観音菩薩で、定型では、それぞれの面が異なる方向の苦しみへ向けられているとされる。制作は平安時代、なかでも後期に位置づけられている。

刃の跡を残す「鉈彫り」

この像をほかの平安仏と分けているのは、表面の彫り方である。木肌をなめらかに仕上げず、体の各所に浅く丸みのある畝を連ねて残す。鑿(のみ)の通った跡を、あえて消さない。これを鉈彫り(なたぼり)と呼ぶ。

畝は彫り残しではなく、意図したものだ。一日のうちで光の差す向きが変われば、溝が影を含んだり手放したりして、像の表情がゆっくり動いて見える。鉈彫りの作例は東国に多く残り、神奈川の日向薬師の薬師三尊像がよく知られる。日本海側の糸魚川にこの作風が伝わっている点は、鉈彫りの分布の西の端を示すものとして、彫刻史の上でも注目される。

指定の経緯と価値

登録は大正12年(1923年)3月28日。当時は明治30年の古社寺保存法にもとづく制度のもとで、この格の作品は「国宝」と呼ばれた。昭和25年(1950年)に現在の文化財保護法が施行された際、旧制度の指定はあらためて整理され、宝伝寺の観音像は重要文化財となった。この早い時期の指定は、像が早くから国内の重要な仏像のひとつと見なされていたことを伝える。

文化庁の記録は簡素で、員数一躯、木造、平安時代、所有は宝伝寺と記すのみである。作者の名はなく、制作年を示す銘もない。地方に伝わる平安仏の多くがそうであるように、年代は様式から読み取られる。体のつくり、衣のひだの彫り方、そして鉈彫りの肌が、いずれも平安後期を指している。

拝観について

宝伝寺は現役の寺院であり、博物館ではない。観音像はガラス越しではなく観音堂に安置され、決まった拝観時間が掲げられているわけでもない。見たい場合は、事前に寺へ連絡して可否を尋ねるのがよい。平日の静かな時間に、余裕をもって相談したい。撮影は、許される場合も寺の意向に従う。

像の前に立てたなら、表面をゆっくり見てほしい。鉈彫りは、時間をかけて眺めるほど応えてくれる。少し横へ回り、また反対へ回って、畝が光をどう返すかを確かめる。頭上に並ぶ小さな十一の面も、下の大きな顔に隠れて見落としやすいが、一つひとつ表情が違う。

寺のまわり

糸魚川は新潟県の西の端、山が海際まで迫る土地にある。市全体が2009年に認定されたユネスコ世界ジオパークで、日本のヒスイ文化が生まれた場所でもある。緑のヒスイ(硬玉)は、数千年前にこの地で加工されていた。駅のすぐ隣にはヒスイ王国館があり、海岸では今も波に磨かれたヒスイの礫を探す人がいる。少し離れたフォッサマグナミュージアムでは、この地域を走る糸魚川‐静岡構造線という大断層について学べる。

隣の天津神社にも足を運びたい。毎年4月の春大祭では、二基の神輿がぶつかり合う「けんか祭り」で境内が沸き、そのあとに舞楽が奉納される。この舞楽は「糸魚川・能生の舞楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。隣接する奴奈川神社には、この海岸のヒスイと結びつく奴奈川姫が祀られている。

Q&A

Q行けばいつでも像を見られますか。
Aそうとは限りません。宝伝寺は現役の寺院で、像は常時公開されていません。訪れる前に寺へ連絡し、拝観できるか確認してください。
Q鉈彫りとは何ですか。
A表面をなめらかに磨かず、丸みのある鑿の跡を畝状に残す平安時代の彫法です。溝が光と影の見え方を変えます。おもに東国で行われました。
Qアクセスは。
A北陸新幹線・えちごトキめき鉄道の糸魚川駅から徒歩約6分です。市役所の向かい、天津神社の隣にあります。寺に駐車場はないので、駅周辺の駐車場を利用してください。
Qなぜ「国宝」が重要文化財なのですか。
A1923年に戦前の制度で国宝に指定され、1950年の新しい法律で旧来の指定が重要文化財へ整理されたためです。その後あらためて国宝に上がったものは一部にとどまります。
Q近くの見どころは。
A駅隣のヒスイ王国館、フォッサマグナミュージアム、4月にけんか祭りと舞楽が行われる天津神社が、いずれも近くにあります。

基本情報

名称木造十一面観音立像〈(観音堂安置)〉
ふりがなもくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
指定区分重要文化財(彫刻) 大正12年(1923年)3月28日指定
時代平安時代(後期)
員数1躯
技法木造、鉈彫り
所有宝伝寺(高野山真言宗・金海山)
所在地新潟県糸魚川市清崎1-5
アクセス糸魚川駅(北陸新幹線・えちごトキめき鉄道)から徒歩約6分
拝観常時公開ではない。拝観希望は事前に寺へ問い合わせを。

References

国指定文化財等データベース(文化庁)木造十一面観音立像〈(観音堂安置)〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/2888
三条市指定有形文化財「木造十一面観音菩薩立像」(宝伝寺像を鉈彫り・平安後期として言及)
https://www.city.sanjo.niigata.jp/soshiki/shimimbu/shogaigakushuka/bunkazai/bunkazai/807.html
糸魚川観光ガイド(天津神社・けんか祭り・舞楽)
https://www.itoigawa-kanko.net/trad/amatsu_shrine/
糸魚川ユネスコ世界ジオパーク(糸魚川市)
https://www.city.itoigawa.lg.jp/page/2247.html
日向薬師 寺宝・仏像・文化財(鉈彫り技法の説明)
https://www.hinatayakushi.com/learn/statue/

最終更新日: 2026.06.20