念仏のさなかを刻んだ一体
善導寺の本堂に立つこの像は、声を発したその一瞬のまま止まっている。顔をやや左斜め上に向け、胸の前で合掌し、唇はわずかに開く。表情だけではない。仏師は開いた口の内側に小さな孔を穿った。そこには細い針金が通され、小さな化仏が取り付けられていたと考えられている。念仏とともに口から仏が現れ出る――その姿を、木で再現しようとしたのである。
表されているのは中国の僧、善導(613〜681)。日本の地を踏むことはなかったが、外来の人物としては類を見ないほど深く、この国の信仰を変えた。像が刻まれたのは善導の没後およそ五百年。国の重要文化財であり、寺がその名を負う理由でもある。
なぜ中国僧が寺の本尊なのか
善導は浄土教に決定的な形を与えた人物である。七世紀の長安にあって、どれほど罪深く力のない者でも、阿弥陀仏の名を口に出して称えれば極楽往生がかなうと説いた。口称念仏――「南無阿弥陀仏」と声に出す、あの実践である。
その著述はのちに二人の日本の僧へと届いた。浄土宗を開いた法然(1133〜1212)は善導を読み、ただ一つの行に立つ教団を築いた。法然の弟子であった親鸞はさらに進んで浄土真宗を開き、その流れは今日、日本でも有数の門徒を擁する。両者ともに、本堂のこの僧へと教えの源をたどる。
だからこの像は、土地の聖人を写したものではない。外来の祖師を、その思想が国の信仰を作り替えていく時代のただなかで、地方の人々が刻んだ姿なのである。
運慶派の手
像高は126.9センチ。檜とみられる針葉樹を用い、内刳りを施した木を前後左右に矧ぎ合わせる寄木造で組み上げる。一木からくり出すよりも軽く、年を経ても割れにくい。眼には水晶を裏から嵌める玉眼が用いられ、光を受けると濡れたような艶を返す。
衣文を見たい。法衣は深く、ゆったりと折り重なりながら身体の上で流れの向きを変え、その下には胸の厚みが確かに通っている。張った両肩、厚い体軀、左へ捻る動きにつれて裙の裾を持ち上げる表現――この自在さを、専門家は運慶の工房の手跡として読む。決め手は顔である。頬骨と頬のくぼみが的確にとらえられ、口を開いて念仏するさまは、京都・六波羅蜜寺の空也上人像を思わせる。あの像では、針金に連なる六体の小仏が唇から現れ出る。この比較から、本像は十三世紀前半から中ごろ、運慶系統の仏師の作と見られている。なお地元の記録は鎌倉時代後期とも伝える。
この立ち姿は越後で生まれたものではない。日本の善導立像は中国の画像に由来する。京都・知恩寺に伝わる南宋・紹興三十一年(1161)の画像がその範で、本像は二重瞼の目もと、上半身をわずかに捻る姿勢まで、その図に忠実である。表面の彩色はかつて花丸文や唐草文で彩られていたが、今は黒ずんで剥落が進む。後世の塗りの下には当初の堅地彩色が残り、袈裟には梅鉢文が確認できる。
平成23年(2011)の重要文化財指定は、ここに理由がある。鎌倉前期の写実をそのまま宿しながら、祖師を一個の人間に縮めてしまうことがない。面ざしは厳かさを保つ。同時代の肖像彫刻のなかでも、屈指の一体に数えられる。
浜の小舟から
像がこの地に伝わった経緯は、寺自身が語り伝えている。文明7年(1475)、蓮開という僧が直江津の西浜に堂を構え、光明寺と名づけた。やがて夢のお告げに導かれ、後に善導浜と呼ばれる砂浜で、捨て小舟のなかから善導の像を見いだしたという。これを本尊として迎え、像にちなんで寺号を善導寺へと改めた。
像の名はほどなく上へと届く。室町時代には後奈良天皇が拝謁したと伝わり、江戸時代には五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が深く帰依した。供養料として三百両と五十石を寄進したとも伝えられる。慶長19年(1614)、徳川家康の六男・松平忠輝が高田城を築き、各所に散っていた寺を一つの町にまとめると、善導寺も今の地へ移った。
像を囲む寺の町
善導寺が建つのは寺町。北国でも指折りの町並みである。高田城の築城に合わせて六十五もの寺社が整然と配され、瓦屋根と妻入りの軒が今も通りに連なる。ここを歩くことは、十七世紀初頭に計画された宗教の一区画をまるごと通り抜けることにほかならない。地元のまちづくり協議会が、めぐり方の案内を整えている。
歩いてすぐのところに高田城がある。今は公園となった。忠輝の普請は大坂の陣を目前に控えて急がれ、石垣を築かなかった。土塁を盛り、周囲の川を堀に用いたため、城というより水をめぐらせた庭のような趣がある。今見る三重櫓は平成5年(1993)の再建である。四月になると堀は、日本三大夜桜の一つに数えられる桜に覆われ、夏には外堀が蓮で埋まる。同じ公園内に上越市立歴史博物館が建つ。
Q&A
- 像そのものを拝観できますか。
- 現役の寺院の本尊であり、国の重要文化財でもあるため、常時公開はされていません。拝観を希望される場合は、事前に善導寺へお問い合わせください。寺町のまちづくり協議会も、寺院めぐりの相談に応じています。
- 善導は中国の僧なのに、なぜ日本の寺に祀られているのですか。
- 口称念仏の教えが、法然・親鸞を通じて日本の浄土系教団の土台となったためです。これらの流れに連なる寺院は善導を祖師として敬い、当寺は像にちなんで寺号そのものを善導寺としています。
- 口の中の小さな孔は何のためのものですか。
- 細い針金を通し、小さな化仏を取り付けるためのものと考えられています。念仏とともに口から仏が現れ出る姿を表したもので、京都・六波羅蜜寺の空也上人像と同じ趣向であり、善導が念仏した際に仏が口から出たという故事に基づきます。
- いつ頃、誰が造ったのですか。
- 鎌倉時代の十三世紀中ごろの作とされ、作風から運慶系統の仏師に帰せられています(後期とする見方もあります)。平成23年(2011)に国の重要文化財に指定されました。
- 周辺へはどう行けばよいですか。
- えちごトキめき鉄道の高田駅が最寄りで、寺町や高田城址公園へは駅から徒歩または短い移動で着きます。新幹線では上越妙高駅で在来線に乗り換え、高田駅へ向かいます。
Basic Information
| 名称 | 木造善導大師立像(もくぞうぜんどうだいしりゅうぞう) |
|---|---|
| 指定区分・指定年月日 | 重要文化財(平成23年6月27日指定/指定番号3575)。県指定 平成18年、市指定 昭和52年 |
| 種別 | 彫刻 |
| 員数 | 1躯 |
| 像高 | 126.9センチメートル |
| 品質・構造 | 檜寄木造、玉眼、彩色(現状は大半が剥落) |
| 時代 | 鎌倉時代・13世紀中ごろ(運慶派の作とされる) |
| 所在地 | 善導寺(新潟県上越市寺町2丁目5番5号) |
| 所有者 | 善導寺 |
| 公開状況 | 常時公開ではない。拝観は事前に寺へ問い合わせ |
References
- 国指定文化財等データベース(文化庁)― 木造善導大師立像
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011474
- 上越市 ― 木造善導大師立像
- https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/cultural-property/cultural-property-jpn013.html
- 高田寺町 寺社めぐり(寺町まちづくり協議会)
- https://takadateramachi.jp/
- 上越観光Navi ― 高田城址公園
- https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=20
最終更新日: 2026.06.20