海を失った水軍大名が、末広山に築いた三つの庭園

玖珠盆地の中央、JR豊後森駅から徒歩で三十分ほど西へ進むと、末広山と呼ばれる小さな丘陵の麓と斜面に三つの庭園が広がっている。江戸時代後期の文政十二年(1829)、森藩第八代藩主・久留島通嘉が、三島宮(現在の末廣神社)の社殿再建にあわせて一体的に造営したもので、平成二十四年(2012)一月二十四日に国の名勝に指定された。

久留島氏の出自は瀬戸内海である。中世に来島(くるしま、現在の愛媛県今治市の小島)を本拠とした来島村上氏は、能島・因島と並ぶ村上水軍三家の一つとして瀬戸内航路の要衝を押さえていた一族で、関ヶ原合戦で西軍についた来島康親は戦後に伊予の所領を失い、慶長六年(1601)に豊後森一万四千石へ転封となった。城を持つことは許されず、廃城の角牟礼城(つのむれじょう)の山麓に森陣屋を構え、明治維新まで十代二六〇年余りこの地を治める。元和二年(1616)に二代通春の代で「来島」から「久留島」へと改姓した。海を失った水軍の末裔が、内陸の小藩で何を築いたのか。その答えの一つが、末広山の三庭園に残されている。

藩主御殿庭園 ― 巨石「喜藤次泣かせの石」をめぐる池泉

三庭園のうち最大規模を誇るのが、末広山東裾と東斜面に展開する藩主御殿庭園である。御殿に面して南北に細長い池が掘られ、中央やや西寄りに中島を設けて、山側を切石橋、御殿側を木橋でつないでいる。一般的な大名庭園と異なるのは、巨石を構成の核に据えている点だ。御殿側の池畔北寄りに据えられた巨大な平天石は、「喜藤次(きとうじ)泣かせの石」と呼ばれている。庭園造営の人夫使役を取り仕切った喜藤次が、この石を御殿裏御門前まで運んだものの、根気が尽きて地団駄を踏んで泣き出したと伝わる逸話に由来する。一乗寺の山伏を呼んで祈祷を行い、ようやく池畔まで運び終えたという。中央の船着石は、後に地元出身の口演童話家・久留島武彦の童話碑として刻字された。

技法の中心は東斜面中央に組まれた三段の枯瀧である。北向きに流れ落ち、降りついた位置で東へ折れる構成で、西側中ほどには高さ約四メートルにおよぶ巨石が据えられている。中島から栖鳳楼へ続く石段の途中には、御殿に正対して高さ約三・五メートルの平たい方形石が立てられ、御殿側からの視点に厳密な計算が働いていることがわかる。中島からの園路の途中、斜面に立つ石灯籠もまた御殿の方を向いており、外から眺めるためではなく、内から見られるための作庭であることが随所で確認できる。

栖鳳楼庭園 ― 一階と二階で景を変える枯山水

末広山の南端、見晴らしの最も開けた位置に建つ二階建ての茶亭が栖鳳楼である。陣屋遺構の中で現存する数少ない建造物の一つで、その周囲には枯山水の庭園が展開している。南東端に築山が設けられ、頂部には三尊石と石灯籠、手前には平天石の礼拝石が据えられている。築山前の飛石や栖鳳楼西側の壁のような平石、また一階・二階の三か所の沓脱石にも巨石が多用される。

注目すべきは、一階と二階で景の構成を意図的に変えている点である。一階の茶室から眺めると、築山の奥に宝山の稜線が右へ続き、九重連山はわずかに右下に見えるのみだが、二階の書院南縁に立てば、左手から大岩扇山・小岩扇山・宝山と続くメサ状の山並み、中央眼下に城下町、右手に万年山と九重連山という遠景が一望できる構成となっている。視点の高低によって庭園と外景の関係を変化させる作庭意図は明確で、栖鳳楼の二階に上って初めて、この庭園が単なる枯山水ではなく、玖珠盆地全体を取り込んだ借景庭園であることがわかる。

清水御門御茶屋庭園 ― 堀の端部を作庭化した小さな前庭

末広山西側、表参道脇の堀の端部を作庭化したのが、最も小さな清水御門御茶屋庭園である。北側に築山を設け、清水御茶屋の石垣下部から湧水「玉水」までの斜面を利用して石組が構成されている。築山手前の池畔には巨石が二石据えられ、その間に飛石が配置されるが、飛石の一石目自体が巨石で、玉水までは中島を介して大きな平石でつないでいる。表参道前という制約された空間に、巨石を破綻なく組み込んだ作例として注目される。御茶屋の建物そのものは現存しないが、北側の小さな空間にも石組が残されており、こちらにも別の庭園があったと考えられている。

三庭園を貫く設計思想と、訪問のヒント

これら三つの庭園は、表参道と藩主御殿の双方から栖鳳楼へと園路でつながれている。回遊路を辿って下から上へと歩を進めれば、池泉、枯瀧、枯山水という異なる庭園様式が連続的に展開する。共通するのは、玖珠盆地のメサ地形が供給する巨石を惜しみなく用いた構成と、各庭園が外部の山々への眺望を意識して配置されている点である。御殿に向き合うのではなく、むしろ城下町とその先の山並みに向かって視線を開く設計は、海を失った水軍大名の家系が、内陸の小藩で別の「広がり」を求めた結果と読むことができる。

旧久留島氏庭園は現在、末廣神社を含む三島公園内にあり、終日無料で見学できる。隣接して、明治期の口演童話家・久留島武彦(森藩主家の末裔)を顕彰する久留島武彦記念館があり、背後の山には角牟礼城跡(国指定史跡)への登山口がある。陣屋・庭園・武家屋敷地・町人町をひとまわりするには半日ほどを見ておきたい。

Q&A

Q庭園が造られたのはいつですか?
A文政十二年(1829)に、第八代藩主・久留島通嘉が三島宮(現在の末廣神社)の社殿再建にあわせて、三庭園を一体的に造営したと考えられています。
Qなぜ「旧」久留島氏庭園と呼ばれるのですか?
A久留島氏は明治維新により大名としての立場を失い、庭園の所有も離れました。現在は玖珠町と法人が所有しているため「旧」と冠されています。
Q当時の建物は今も残っていますか?
A二階建ての茶亭・栖鳳楼や複数の御門が陣屋遺構として現存しています。藩主御殿そのものは残っておらず、跡地から見下ろす形で池泉庭園が広がっています。
Qアクセスはどうなっていますか?
A大分自動車道・玖珠ICから車で約五分です。公共交通の場合、JR久大本線・豊後森駅から徒歩約三十分、または路線バス「森町」バス停下車徒歩三分となります。
Q村上水軍との関係は?
A久留島氏の祖は伊予国来島を本拠とした来島村上氏で、能島・因島と並ぶ村上水軍三家の一つでした。関ヶ原合戦後に豊後森へ転封されてから「久留島」と改姓し、内陸の小藩を治めることとなりました。

基本情報

名称旧久留島氏庭園(きゅうくるしましていえん)
指定区分国指定名勝
指定年月日平成二十四年(2012)一月二十四日
指定基準一.公園、庭園
所在地大分県玖珠郡玖珠町大字森
所有者種別町、法人(玖珠町、法人)
構成藩主御殿庭園・栖鳳楼庭園・清水御門御茶屋庭園の三庭園
作庭年文政十二年(1829)、三島宮(現・末廣神社)社殿再建と一体で造営
作庭者森藩第八代藩主・久留島通嘉
アクセス大分自動車道「玖珠IC」より車で約五分/JR久大本線「豊後森駅」より徒歩約三十分、または路線バス「森町」バス停より徒歩三分
入園料無料(三島公園内、終日入園可)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)― 旧久留島氏庭園
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003757
文化遺産オンライン ― 旧久留島氏庭園
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/252559
玖珠町公式ウェブサイト ― 旧久留島氏庭園(社会教育課)
https://www.town.kusu.oita.jp/soshiki/shakaikyoikuka/2/5/shiteitouroku/934.html
玖珠町公式ウェブサイト ― 国指定名勝「旧久留島氏庭園」
https://www.town.kusu.oita.jp/soshiki/syokokankoseisakuka/1/1/2/706.html
大分県観光情報公式サイト「日本一の『おんせん県』おおいた」― 旧久留島氏庭園
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/9209

最終更新日: 2026.05.27