柱穴に残る古代の役所
7世紀の終わりごろ、大分市東部の台地の上に、大型の建物がコの字形に並んでいた。三方を建物が囲み、中央に一棟が据えられた配置である。建物そのものは残っていない。残っているのは、柱を立てた穴の跡であり、その並び方から、ここが地方の役所であったと考えられている。
里官衙遺跡は、令和4年(2022年)に国の史跡に指定され、令和6年(2024年)には範囲が追加された。古代の海部地域に置かれた一つの役所が、どのように成立し、建て替えられ、やがて移っていったのか。およそ100年にわたる変遷が、台地の地下に記録されている。
城原台地に営まれた官衙
遺跡があるのは、大分市東部の城原台地である。標高は約42メートル。大野川と丹生川という二つの川に挟まれた台地で、その頂部には100メートル四方ほどの平坦地が広がる。両側を川に守られ、見晴らしのきく高所は、地域を治める拠点を置くのに適した土地だった。
古代の行政区分では、この一帯は海部郡の佐井郷に属していた。官衙とは、律令制のもとで地方を治めた役所の建物群を指す。実務をおこなう建物、儀式の場、官人の居宅、倉などがまとまり、中央の朝廷につながる地方の拠点として機能した。
発掘調査では、7世紀中ごろから8世紀前半にかけて使われた建物の跡が見つかっている。多くは掘立柱建物で、礎石を据えず、柱を直接地面に埋め込んで建てたものである。これに竪穴建物も加わる。木の柱はやがて朽ち、あるいは抜き取られたため、現在の地表に残るのは、柱を埋めた穴の跡だけである。
五つの時期が示す変化
調査では、建物跡や出土遺物の検討から、遺跡の歩みが五つの時期に区分された。この移り変わりこそが、里官衙遺跡の価値を支えている。一つの役所が時とともに姿を変えていく過程を、地下の遺構から読み取れるからである。
もっとも明瞭なのが、7世紀末から8世紀初頭にあたる第3期である。複数の大型掘立柱建物がコの字形に配され、その中央に中心的な建物が置かれた。これほど整った配置は、機能する役所の特徴であり、この区画は海部評の役所と考えられている。
ここで「評」という文字に触れておきたい。大宝律令が施行される701年より前、地方の行政単位は「評」と書かれ、施行後は同じ単位が「郡」と表記されるようになった。7世紀末の役所は、古い「評」の時代に属する。律令制以前の地方支配を具体的に示す遺跡は数が少なく、それがこの発見の重みでもある。
8世紀前半の第4期になると、大型建物は廃絶し、代わって小規模な掘立柱建物や倉庫群が展開する。役所の中心的な機能は、奈良時代に入って西方の城原地区へと移っていったと考えられる。里官衙遺跡には、地方官衙の成立と、その機能が移ろっていく過程の両方が刻まれている。
令和4年の史跡指定で評価されたのも、この点であった。古代の地方官衙が成立し、展開していく様子を、具体的な遺構として知ることのできる遺跡である。
遺跡を訪ねる前に
里官衙遺跡は、復元された遺跡ではなく、発掘調査によって明らかになった遺跡である。建物が建ち並ぶわけではない。台地に登っても、目に入るのは農地と開けた土地であり、訪問の手応えは、その地下に何があるかを知ることから生まれる。
平坦な頂部に立つと、この場所が選ばれた理由が見えてくる。役所を構えるだけの広さがあり、両側の川へ向かって地形が落ちていく。7世紀の人々が求めたのは、高さと、水と、開けた視界だった。台地は今もその三つを備えている。
指定が新しいため、現地の解説設備は限られ、指定地には私有地も含まれる。間近で見学する場合は、事前に大分市の文化財担当部局に状況とアクセスを確認し、農地としての景観に配慮して訪れたい。
周辺の見どころ
遺跡があるのは大分市の東部、鶴崎の内陸側にあたる地域である。この一帯には、古代国家が地方に根を下ろしていった時代の痕跡が、ほかにも残されている。
近い国分地区には、国の史跡である豊後国分寺跡がある。国分寺は、天平13年(741年)の聖武天皇の詔を受けて諸国に建てられた官立の寺院である。地方の役所と、国ごとの寺。互いに遠くない場所にあるこの二つは、都から地方を治めるという同じ営みの、別の側面を描き出している。
河口に近い大野川は、ゆったりと幅を広げて流れる。鶴崎付近には河川敷の公園が整い、静かな散策に向く。古くからの川港であった鶴崎の町は、古代豊後の遺跡めぐりと、水辺でのくつろいだ時間とを組み合わせる拠点になる。
Q&A
- 「官衙」とは何ですか。
- 官衙とは、古代の日本で国や郡などの地方行政を担った役所の建物群を指す言葉です。実務の建物、儀式の場、官人の居宅、倉などからなり、中央の朝廷と地方を結ぶ拠点として、おおむね7世紀から10世紀ごろに機能しました。
- 建物がコの字形に並ぶことには、どんな意味がありますか。
- 三方に建物を配し、中央に建物を据える整った配置は、ふつうの集落ではなく、計画的に造られた役所の特徴です。里官衙遺跡では、7世紀末ごろのこの配置が、ここを海部評の役所と考える主な根拠になっています。
- 「評」と「郡」はどう違うのですか。
- どちらも国の下に置かれた行政単位を指します。701年の大宝律令より前は「評」と書かれ、施行後は「郡」と表記されました。第3期の役所は7世紀末にあたるため古い「評」の段階に属し、律令制以前の地方支配を知る手がかりになります。
- 見学はできますか。何が見られますか。
- 台地までは行くことができますが、整備された公園ではなく、発掘調査の対象となった遺跡です。復元建物はなく、見えるのは高台に広がる農地と開けた土地です。現地の解説は限られ、私有地も含まれるため、訪問前に大分市へ確認することをおすすめします。
- どのように行けばよいですか。
- 遺跡は大分市の東部、鶴崎の内陸側にあります。鶴崎へはJR日豊本線が通っており、台地へはそこから車や路線バスを利用するのが分かりやすい方法です。専用の見学施設はないため、最新の経路は大分市に確認してください。
基本情報
| 名称 | 里官衙遺跡(さとかんがいせき) |
|---|---|
| 所在地 | 大分県大分市 |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 令和4年(2022年)11月10日(令和6年〈2024年〉10月11日に追加指定) |
| 時代 | 飛鳥時代~奈良時代(7世紀中頃~8世紀) |
| 指定面積 | 7,679.68平方メートル |
| 指定基準 | 二(政治に関する遺跡) |
| 公開状況 | 復元建物や専用の見学施設はない、発掘調査済みの遺跡 |
参考文献
- 里官衙遺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004169
- 里官衙遺跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579842
- 大分市の文化財 - 大分市
- https://www.city.oita.oita.jp/o204/culturalproperty.html
- 大分市の歴史的環境 - 大分市
- https://www.city.oita.oita.jp/o169/rekimachi/documents/rekishitekikannkyou.pdf
最終更新日: 2026.05.27