土の下から掘り起こされた江戸の庭

江戸時代から伝わる庭園の多くは、長い年月にわたって人の手で絶やさず守られてきた。赤穂城の庭は、それとは違う道をたどっている。明治の世に城がその役目を終えると、城地は民有地となり、池はやがて埋められて田畑に変わった。庭がそこにあったことを示すものは、長く土の下に眠っていた。

兵庫県南西部、赤穂市の城跡をいま歩くと、ゆるやかな池泉とその護岸を目にすることができる。これは数十年にわたる発掘調査の成果である。池底や石敷きの流れ、汀の構造が細部まで検出され、本丸と二之丸の二つの庭園が江戸時代初期の姿に近い形で復元された。両者をあわせて「旧赤穂城庭園」と呼び、平成14年(2002年)9月20日に国の名勝に指定されている。

海に臨んで築かれた城

赤穂城の歴史は、正保2年(1645年)、常陸国笠間から浅野長直が入封した年に始まる。築城は慶安元年(1648年)から寛文元年(1661年)まで、この規模の城としては長い年月をかけて進められた。設計を担ったのは、甲州流軍学を修めた家臣・近藤正純である。その師にあたる儒者・山鹿素行は、工事のさなか赤穂に滞在し、縄張りの一部に手を加えたと伝わる。

赤穂城は平城であり、往時は城郭の南半分が瀬戸内海に直接面していた。舟で城際まで近づくこともできたという。水は千種川の上流から取られ、整えられた上水の仕組みによって城下の家々にまで届けられた。同じ水路は城内の池にも引かれていた。自然の川が流れ込まないこの地に二つの大きな水の庭を保ち得たのは、この上水があってのことである。

赤穂の名は、日本史でくり返し語られてきた事件と結びついている。元禄14年(1701年)、三代目の浅野内匠頭長矩が江戸城中で刃傷に及び、即日切腹を命じられて赤穂藩は取り潰しとなった。翌年の冬、大石内蔵助に率いられた四十七人の旧家臣が討ち入りを果たし、これがのちの忠臣蔵の物語の下敷きとなった。浅野家の断絶後、赤穂は森氏が明治維新まで治め、本丸庭園の一部はこの森氏の代に手が加えられている。

名勝に指定された理由

大名庭園は各地に残るが、その多くは一つの屋敷に一つの庭という形で伝わってきた。赤穂城が珍しいのは、一つの城が本丸と二之丸に二つの大きな池泉庭園を備え、その双方が発掘によって取り戻され、ひと続きのものとして保存された点にある。文化庁はこの点を指定の理由に挙げ、本丸・二之丸が一体となって保存される初めての大名庭園であると述べている。

発掘はまた、手入れの続いた庭では得られないものをもたらした。庭がどう移り変わったかを示す物的な証拠である。本丸の大池泉では、池底や石組みが重なり合い、三期ほどの造り替えがあったことが確認された。復元にあたっては、この変遷が読み取れる形で整備が施されている。研究者にとってこの庭は、美しい眺めとしてよりも、一つの藩が江戸時代を通じて庭をどう使ったかを記録する資料として価値が高い。

本丸庭園に置かれた三つの池

本丸庭園は藩主の御殿を取り囲み、三つの離れた水面で構成されている。最も大きな池泉は御殿の南面にある。汀は岬や入江の形に細かく刻まれ、中島が浮かび、景石が考え抜かれた位置に据えられている。水をのぞき込むと、池底そのものが見どころになる。板石や瓦が幾何学的な文様に敷き並べられ、その間に砂利が敷かれている。この化粧された池底は珍しく、それをはっきり見せるために、復元では池の水を浅く保っている。

御殿の奥の坪庭には、東西に並ぶ二つの小さな池がある。水はまず玉石を敷いた西側の池に入り、東側の舟形の淀みへと移って、暗渠を通って大池泉へ流れ出る。護岸は漆喰に玉石を埋め込んで仕上げられ、霰をこぼしたような細かな表情をもつ。手のかかった仕事である。

三つめの池は本丸の北西隅にあり、まったくの予想外だった。城を描いた絵図のどれにも載っていない。発掘によって初めてその存在が知られ、出土品のなかには人物の名を記した木簡があった。そこには浅野内匠頭や大石内蔵助の名も見える。池は二つの部分からなり、南側は板石を貼り並べた方形の池、北側はより素朴な楕円形の池で、汀の線にだけ礫石が敷かれている。

庭の上には、高さ約9メートルの天守台がそびえる。ここに天守が建てられたことは一度もない。天守台に登ると、三つの池がたがいにどう関わり、いまは失われた御殿の輪郭とどう結びついているかが、最もよく見渡せる。

舟遊びのためにつくられた二之丸庭園

二之丸庭園は二つの庭のうち大きいほうで、本丸庭園とは異なる考えで構成されている。家老の屋敷の南面から二之丸の西仕切にまで広がり、その面積はおよそ一万八千平方メートルに及ぶ。屋敷の主は大石良重、通称・頼母助で、藩の重臣であり、大石内蔵助の大伯父にあたる。庭園の入口は、いまもこの屋敷の門である。

庭は二つの異なる表情をもつ。屋敷に近い一帯は流れのように読める。玉石や板石を敷いた浅く入念な水路で、入江の先端に設けられた給水口から水が注がれ、ゆるやかにのびやかに動いていく。この部分は近くで眺めるためにつくられている。

南西の一帯はまったく性格が異なる。ここでは水が深くなり、錦帯池と呼ばれる広い池になる。舟を浮かべられるほどの大きさで、池中には二つの中島があり、橋の遺構も確認されている。静かな流れとこの開けた水面とは、わずかな水位の差で隔てられている。赤穂に配流されていた儒者・山鹿素行は、錦帯池に舟を浮かべて遊んだことを書き残しており、池の名と、それが舟遊びに使われていたことは、この記述から知られている。

訪れるにあたって

二つの庭はいずれも赤穂城跡の中にあり、ひと続きの散策で見てまわれる。本丸庭園と二之丸庭園の開園は9時から16時30分まで、入園は16時までで、料金はかからない。年末年始の12月28日から1月4日は休園となるが、城跡のそのほかの区域は通年で開いている。整備はいまも一部で続いており、工事のため立ち入れない箇所がある場合もある。

JR赤穂線の播州赤穂駅からは、城跡まで徒歩でおよそ15分から20分。山陽自動車道の赤穂インターチェンジからは車で10分ほどで、無料の駐車場がある。二つの庭をゆっくり見るなら、少なくとも1時間はみておきたい。本丸の池と二之丸の開けた水面との対照は、急がずに歩いてこそ感じ取れる。

庭園の外へ

城跡には二つの庭以外にも見るものがある。本丸門をはじめいくつかの建物が、発掘調査と古絵図、古写真をもとに復元されてきた。三之丸には江戸時代の建物が二棟、実際に残っている。大石邸の長屋門と、近藤源八宅跡の長屋門である。

少し歩けば大石神社がある。大石家の屋敷跡に明治33年(1900年)に創建され、四十七士を祀る。境内の義士史料館には、元禄15年の討ち入りにまつわる武具や資料が並ぶ。城の近くにある赤穂市立歴史博物館は、藩の歩み、名高い塩づくり、そして城の庭を支えた上水の仕組みについて、知る手がかりを与えてくれる。庭園をもう一つ訪ねるなら、数キロ離れて田淵氏庭園があるが、一般公開は年にわずかな日に限られている。

Q&A

Q庭園は当時のまま残っているのですか。
A復元されたものです。廃城後に池は埋められ、城地は田畑になりました。現在見られる庭は発掘調査をもとに復元され、検出された池底や石組みを露出して展示しています。二つの庭は平成28年(2016年)に一般公開が始まりました。
Q見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A本丸庭園と二之丸庭園をゆっくり見て、およそ1時間が目安です。復元された城門や近くの大石神社まで足をのばすなら、半日みておくと余裕があります。
Q入園料はかかりますか。
A無料です。開園は9時から16時30分まで、入園は16時まで。12月28日から1月4日は休園です。
Q忠臣蔵とのつながりは。
A赤穂城は、のちに忠臣蔵として語られる討ち入りの発端となった浅野家の居城でした。本丸の池の一つからは浅野内匠頭や大石内蔵助の名を記した木簡が出土しており、二之丸庭園の入口は大石内蔵助の大伯父の屋敷門です。
Qなぜ一つの城に大きな庭が二つもあるのですか。
Aこれは珍しいことです。大名庭園はふつう一つの屋敷に一つです。千種川から引いた上水の仕組みがあったため、海沿いの城内に大きな池を保つことができました。その双方がひと続きのものとして残ったことが、名勝指定の大きな理由になっています。

基本情報

名称旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)
所在地兵庫県赤穂市上仮屋
指定区分名勝(平成14年〈2002年〉9月20日指定)
指定基準一.公園、庭園
一般公開平成28年(2016年)
開園時間9:00〜16:30(入園は16:00まで)
休園日12月28日〜1月4日
入園料無料
アクセスJR播州赤穂駅から徒歩約15〜20分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「旧赤穂城庭園 本丸庭園 二之丸庭園」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/3340
国史跡赤穂城跡 公式Webサイト(赤穂市教育委員会)
http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/
赤穂市「赤穂義士にまつわる史跡等」
https://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/samurai/siseki_link.html
赤穂城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/赤穂城

最終更新日: 2026.05.23