朱の手形が残る、後鳥羽院最期の自筆遺言
暦仁2年(1239年)2月9日、隠岐の配所で、60歳の後鳥羽上皇は一通の置文をしたためた。料紙に向かって筆を執り、書き終えると、両の掌に朱をつけて紙面に押し当てた。崩御はその13日後である。この文書が「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」として水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)に守り継がれ、昭和27年(1952年)3月29日、国宝(古文書)に指定された。
「宸翰」は天皇自筆の文書、「御手印」は手形、「置文」は後事を託す書、すなわち遺言を意味する。紙本墨書1巻、縦39.0センチ、横101.2センチ。鎌倉時代の古文書のなかでも、書き手の身体の痕跡をこれほど直接にとどめた例はほとんどない。
承久の乱から19年、隠岐での執筆
後鳥羽上皇は『新古今和歌集』の編纂を主導し、刀剣の鍛造にも自ら携わった多才の帝王であった。承久3年(1221年)、鎌倉幕府の北条義時追討を企てて承久の乱を起こすが、約1か月で完敗し、隠岐国の中ノ島(現在の島根県海士町)へ流される。以後19年、都の土を踏むことなく和歌と仏道修行の日々を送った。
暦仁2年の年初、病が日ごとに重くなるのを悟った上皇は、長年仕えた近臣の水無瀬(藤原)親成に宛ててこの置文を書いた。内容は、摂津国の水無瀬・井内の地などの知行を親成に認め、あわせて自らの後生の供養を託すものである。出雲国内の所領にも言及するとされる。文中には、この病はよもやと思っていたが日を追って重くなり、もはや避けがたいと覚悟した、という趣旨の率直な一節があり、「我後生を返々とぶらふべし」と繰り返し供養を求めている。
病床の筆とは思えないほど、墨線は太く力強い。
国宝指定の理由と価値
天皇の宸翰は国宝指定品だけでも十数件を数えるが、本文書を際立たせているのは、紙面に鮮明に残る両手の朱印である。宸翰に手印を捺した例は、京都・大覚寺の後宇多天皇宸翰御手印遺告など、ごく少数しか知られていない。花押や印章が文書の真正を保証する記号であるのに対し、手印は書き手の身体そのものを紙に刻む行為であり、死を目前にした上皇の決意の強さを視覚的に示している。
史料としての価値も大きい。承久の乱という、朝廷と武家の力関係を決定づけた事件の当事者本人が、最晩年に自らの言葉で残した一次史料であり、配流された治天の君の心情と、近臣への報恩の意志を直接読み取ることができる。書としても、藤原定家らと並び称された能書の帝王の絶筆に近い作として注目されてきた。
水無瀬神宮の起源となった一通
置文を受けた水無瀬家の対応は早かった。崩御翌年の仁治元年(1240年)、信成・親成父子は、上皇が生前こよなく愛した水無瀬離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇の御影と置文を奉安した。これが水無瀬神宮の始まりである。明応3年(1494年)には後土御門天皇から「水無瀬宮」の神号を賜り、現在は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇の三帝を祭神とする。一通の遺言が、八百年近く続く神社を生んだことになる。
原本は通常公開されていない。社宝として厳重に保管され、京都国立博物館「国宝」展(2017年)、九州国立博物館「王羲之と日本の書」(2018年)、大阪での「日本国宝展」(2025年)など、大規模な特別展に出陳された際に拝観の機会がある。複製は隠岐・中ノ島の後鳥羽院資料館でも見ることができる。
境内の見どころとアクセス
水無瀬神宮の境内には、環境庁(当時)選定「名水百選」に大阪府で唯一選ばれた「離宮の水」が湧き、早朝から水を汲む人の列が絶えない。千利休もこの水を好んだと伝わり、毎年、三千家の家元による献茶式が営まれる。重要文化財の茶室「燈心亭」、豊臣秀吉ゆかりの客殿も残る。神門には、社宝の名刀を盗みに入った石川五右衛門が残したと伝わる手形があり、手印の置文を蔵する神社に盗賊の手形が伝わるという取り合わせも面白い。夏には参道に数百の風鈴が吊られ、近年は「招福の風」として親しまれている。
アクセスは阪急京都線「水無瀬」駅から徒歩約10分、JR京都線「島本」駅から徒歩約15分。大阪梅田・京都河原町のいずれからも30分前後で着く。徒歩約10分の距離には日本のウイスキー発祥の地、サントリー山崎蒸溜所があり(見学は要予約)、天王山の麓に広がる山崎・大山崎エリアの散策と組み合わせれば、京都と大阪を結ぶ旧街道沿いの半日旅になる。
Q&A
- 水無瀬神宮に行けば実物を見られますか。
- 通常は非公開です。原本は社宝として保管されており、国立博物館などで開催される大規模な特別展に出陳された際に限り拝観できます。境内の参拝は年間を通じて可能です。
- 置文にはどのようなことが書かれていますか。
- 近臣の水無瀬親成に摂津国の水無瀬・井内の地などの知行を認め、自身の死後の供養を繰り返し依頼する内容です。病が日々重くなり死期を悟ったという率直な記述も含まれています。
- 手印が押された宸翰は他にもありますか。
- きわめて少なく、大覚寺の後宇多天皇宸翰御手印遺告(国宝)などごく数例が知られるのみです。両手の手印が鮮明に残る本文書は、そのなかでも代表的な存在です。
- なぜ大阪の神社が所蔵しているのですか。
- 置文を受けた水無瀬家が、上皇の遺志に従って水無瀬離宮跡(現在の島本町)に御影堂を建てて文書を奉安したためです。この御影堂が現在の水無瀬神宮へと発展しました。
- 水無瀬神宮には他にも国宝がありますか。
- 藤原信実筆と伝わる「紙本著色後鳥羽天皇像」も国宝に指定されています。配流前の上皇の姿を描いた似絵の名品で、こちらも特別展出陳時のみ公開されます。
基本データ
| 名称 | 後鳥羽天皇宸翰御手印置文〈暦仁二年二月九日〉(ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(古文書) 昭和27年(1952年)3月29日指定 |
| 時代・年代 | 鎌倉時代 暦仁2年(1239年) |
| 筆者 | 後鳥羽天皇(後鳥羽上皇、1180〜1239年) |
| 員数・形状 | 1巻 紙本墨書 縦39.0センチ×横101.2センチ |
| 所有者 | 水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町広瀬3-10-24) |
| 公開状況 | 通常非公開。特別展出陳時のみ公開 |
| アクセス | 阪急京都線「水無瀬」駅徒歩約10分、JR「島本」駅徒歩約15分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)後鳥羽天皇宸翰御手印置文
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/826
- 文化遺産オンライン 後鳥羽天皇宸翰御手印置文
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204139
- 水無瀬神宮 公式サイト
- https://www.minasejingu.jp/info.html
- nippon.com 承久の乱(下)配流の地・隠岐
- https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10912/
- 和樂web 国宝「後鳥羽天皇筆 御手印置文」
- https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1889/
最終更新日: 2026.06.10