平安の宮廷がのこした一片の象牙
大阪府藤井寺市の道明寺天満宮に、長さ三六・四センチ、幅五・七センチほどの細い象牙の板がおさめられている。牙笏(げしゃく)と呼ばれる宮廷の儀礼具で、学問の神として知られる菅原道真の遺品と伝わる六種の品の一つである。
笏(しゃく)は、束帯などの正装の際に右手に持ち、威儀を正すための板をいう。もとは唐の制度にならったもので、中国では裏に紙片を貼り、儀式の次第を書きつける備忘の道具でもあった。日本でも律令の衣服令により、五位以上の貴族は象牙の牙笏を、六位以下は木製の木笏を持つと区別されていた。
象牙の笏が稀少である理由
古代の日本では象牙の入手が難しく、牙笏を用いる慣習は長くは続かなかった。平安時代に入ると牙笏は礼服のときに限って用いられるようになり、大同四年(八〇九年)には五位以上にも白木の笏が許される。以後、礼服を除けば、笏はイチイや桜、杉などの木製が通例となった。そのため、現存する古代の牙笏はきわめて少ない。正倉院に三枚、法隆寺に伝わったものが一枚、そして道明寺天満宮のこの一枚が知られる程度である。
当社の牙笏は、頭部にわずかな丸みをもたせた直頭の素朴な形をしている。文化庁の解説によれば、正倉院の御物をのぞいて類例がない。形が単純で、銘も年紀もないため、笏そのものの制作年代を厳密に定めるのは難しい。一般には平安時代のものとされるが、正倉院に伝わる奈良時代の牙笏との近さも、古くから指摘されてきた。
左遷された大臣の遺品
この笏に重みを与えているのは、それにまつわる伝承である。菅原道真(八四五〜九〇三)は平安の朝廷で右大臣にまで昇ったが、政争に巻き込まれ、九州の大宰府へ左遷された。延喜三年(九〇三年)、道真は都に戻ることなく大宰府で世を去る。伝えによれば、その遺愛の品々は道真の遺志に従って、氏寺であった土師寺(はじでら)の住職をつとめた伯母の覚寿尼(かくじゅに)のもとへ届けられたという。土師寺はのちに道真の号にちなんで道明寺と改められ、品々は今日までこの地に守り伝えられてきた。
これら六点は「伝菅公遺品」として一括で国宝に指定されている。牙笏のほかに、唐の官窯で焼かれた青白磁の円硯、水晶をはめ込んだ銀装の革帯、玳瑁(たいまい)で飾った象牙の櫛、犀角の柄をもつ刀子、伝説の名手伯牙が琴を弾く姿をあらわした銅鏡がある。唐から舶載されたものと日本で作られたものとがまじるが、いずれも唐時代の様式を映しており、平安初期の貴族をとりまいた洗練された器物の世界をしのばせる、数少ない手がかりとなっている。
六点は昭和二十六年(一九五一年)六月九日に重要文化財に指定され、昭和二十八年(一九五三年)三月三十一日に国宝へと格上げされた。
実物に向き合う
六つの宝物は、明治三十五年(一九〇二年)、道真の千年祭を記念して建てられた宝物館におさめられている。傷みやすく替えのきかない品であるため、国宝が公開されるのは年に数日に限られ、その多くは正月前後と梅の見頃の時期である。日によっては六点のうち三点のみの展示となることもあるので、牙笏を目当てにする場合は事前に確認しておきたい。通常の開館日以外でも、電話予約によって拝観できる場合がある。
硝子越しに向き合うと、その質素さと意味の大きさとの落差に気づく。装飾はほとんどなく、むしろ簡素である。それでもこれは宮廷社会の頂点における儀礼の具であり、日本史上もっとも名高い生涯の一つと分かちがたく結びついている。
道明寺天満宮の周辺
道明寺天満宮は近鉄南大阪線の道明寺駅から歩いてすぐにあり、大阪市街からの日帰りにも向く。境内は約八百本といわれる梅園で名高く、二月下旬から三月上旬にかけて多くの参拝者を集める。大阪みどりの百選にも選ばれたこの梅園は、梅を愛した道真にふさわしい。
隣接する道明寺は、道真の氏寺の流れをくむ尼寺で、国宝の十一面観音立像を毎月十八日と二十五日に開帳している。藤井寺一帯は、巨大な古墳が連なる百舌鳥・古市古墳群の一部でもあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。歴史の層が幾重にも折り重なった土地といえる。
Q&A
- 牙笏とはどのようなものですか。
- 象牙でつくられた笏で、正装の際に右手に持ち、威儀を正すための板です。象牙の笏は高位の官人にのみ許され、多くの貴族は木製の笏を用いました。
- 牙笏はいつでも見られますか。
- いいえ。宝物館で限られた日にのみ公開され、その多くは正月前後と梅の時期です。日によっては六点のうち三点のみの展示となるため、事前の確認か電話予約をおすすめします。
- 本当に菅原道真の品なのですか。
- 結びつきは記録ではなく伝承によります。六点は「伝菅公遺品」の名で指定されており、牙笏そのものの年代も厳密には定めがたいため、古くからの言い伝えとして受けとめるのが妥当です。
- 行き方を教えてください。
- 近鉄南大阪線の道明寺駅から徒歩数分です。大阪市街からおよそ三十分ほどで着きます。
- 周辺の見どころはありますか。
- 境内の梅園、国宝の観音像をもつ隣の道明寺、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群などがいずれも近くにあります。
基本情報
| 名称 | 牙笏(げしゃく) |
|---|---|
| 所在地 | 大阪府藤井寺市 道明寺天満宮 |
| 指定区分 | 国宝(工芸品)/「伝菅公遺品」六種のうち |
| 指定年月日 | 重要文化財 昭和二十六年(一九五一)六月九日/国宝 昭和二十八年(一九五三)三月三十一日 |
| 時代 | 平安時代 |
| 員数 | 一条 |
| 寸法 | 長さ三六・四センチ、幅五・七センチ |
| 品質 | 象牙製 |
| 所有者 | 道明寺天満宮 |
| 公開 | 宝物館(公開日は限定。要事前確認・電話予約) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/398
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/192623
- 道明寺天満宮 公式サイト(宝物)
- https://www.domyojitenmangu.com/treasure.html
- 道明寺天満宮 公式サイト(宝物館)
- https://www.domyojitenmangu.com/homotsukan.html
- 藤井寺市「道明寺天満宮と国宝伝菅公遺品」
- https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/fuziiderasinositeibunnkazai/kunifusiteibunkazai/1387694428536.html
最終更新日: 2026.06.12