蒔絵一千年の歴史、その出発点
長さ90.0センチ、幅11.8センチ、高さ26.7センチ。横に長い黒漆塗の台に、四本の細い脚が付く。藤田美術館(大阪市都島区)が所蔵する国宝「花蝶蒔絵挾軾(かちょうまきえきょうそく)」は、平安時代前期、9世紀にさかのぼる調度である。
挾軾とは、座った人が身体の前に置いて肘や腕をあずける憑具(よりかかるための道具)をいう。後世の脇息が身体の横に置かれるのに対し、この古い形式では正面に据えて前傾姿勢で寄りかかった。正倉院宝物にも「紫檀木画挾軾」など近い形の遺品があり、本品はその系譜を引く。
そして本品の価値は、調度としての姿以上に、表面を飾る蒔絵にある。金属粉を蒔いて文様を表す蒔絵という技法の、現存最初期の作例のひとつだからである。
国宝指定の理由と価値
蒔絵は、漆で文様を描き、乾かないうちに金属粉を蒔きつけて装飾する日本独自の漆芸技法である。奈良時代に原型が生まれ、平安時代を通じて発展し、以後一千年にわたり日本工芸の中核であり続けた。本品は漆工史の概説書において平安初期の蒔絵を代表する遺例として挙げられ、正倉院宝物と、10世紀以降の本格的な蒔絵作品とをつなぐ位置にある。
技法は研出蒔絵(とぎだしまきえ)と考えられている。文様を蒔いた後にさらに漆を塗り重ね、研ぎ出して文様を平滑に現す手法である。注目すべきは材料で、金色の部分には金粉を用いる一方、銀色の部分には銀ではなく錫(すず)を使う。錫の使用は漆工史上でも珍しい。藤田美術館の解説によれば、金属粉は後世の作に比べて粗く、錫は粉を蒔いたというより塗ったように見えるという。技法が確立する以前の、試行の痕跡である。
伝来も特異である。本品は奈良・薬師寺の境内に祀られた八幡宮の神宝と伝わり、祭神の御料であった可能性が指摘されている。神への奉献品として大切に守られたことが、木と漆という脆弱な素材の調度を11世紀余りにわたって現代まで残した一因と考えられよう。
1956年(昭和31年)6月28日に重要文化財に指定され、翌1957年(昭和32年)2月19日、国宝に指定された(指定番号00211)。
見どころ:側面と脚に咲く花、舞う蝶
展示室でまず気づくのは、装飾の控えめさだろう。蒔絵は天板の上面ではなく、薄い天板の側面と脚、脚台に施されている。離れて見れば黒一色の古びた台にしか見えず、近づき、低い視線で側面をのぞき込んで初めて文様が立ち上がる。
主文様は宝相華(ほうそうげ)。唐の影響下で流行した、現実には存在しない想像上の花である。その間を金と錫の蝶が舞う。文様帯の縁には、銀色の小さな珠を連ねた連珠文(れんじゅもん)がめぐる。シルクロード経由で伝わった古い縁飾りの意匠である。
配置は左右対称。唐風を受けた奈良時代に好まれた構成で、おおらかな古様の趣をたたえる一方、奈良時代の作品と比べるとやや硬い印象があると指摘される。様式が次の時代へ移ろうとする、その境目の表情をここに読み取ることができる。
なお藤田美術館は所蔵品を小規模なテーマ展示で順次公開しており、本品が常時展示されているわけではない。鑑賞を目的に訪れる場合は、公式サイトで展示スケジュールの確認を勧めたい。
周辺情報:藤田美術館とその界隈
藤田美術館は、明治の実業家・藤田傳三郎(1841〜1912)と長男平太郎、次男徳次郎の二代三人が収集したコレクションを公開するため、1954年に開館した。廃仏毀釈と美術品の海外流出を憂えた傳三郎が私財を投じて集めた約2,000件には、国宝9件、重要文化財50件超が含まれ、民間の美術館として屈指の規模を誇る。建物は全面建替えを経て2022年4月にリニューアルオープンした。
開館時間は10時から18時。休館は年末年始(12月29日〜1月5日)のみで、月曜日も開館する。入館料は1,000円、19歳以下は無料(年齢確認書類の提示が必要)。エントランスの「あみじま茶屋」では炭火で焼くだんごと茶が供され、鑑賞の前後にひと息つける。
アクセスはJR東西線「大阪城北詰」駅3番出口から徒歩約2分、京阪「京橋」駅片町口から徒歩約10分。美術館に隣接して旧藤田邸の庭園が残り、高野山から移築された多宝塔が建つ。大川沿いには桜の名所として知られる毛馬桜之宮公園が広がり、南へ歩けば大阪城公園に至る。美術鑑賞と川沿いの散策、大阪城観光を一日で組み合わせられる立地である。
Q&A
- 花蝶蒔絵挾軾はいつでも見られますか。
- 常設展示ではありません。藤田美術館は所蔵品を入れ替えながら公開しているため、展示時期は公式サイトの展示スケジュールで事前に確認してください。
- 挾軾とはどのような道具ですか。
- 座った人が身体の前に置いて寄りかかる憑具です。横に置く後世の脇息と異なり、正面に据えて使いました。本品は薬師寺の八幡宮の神宝と伝わり、祭神の御料であった可能性も指摘されています。
- なぜ国宝に指定されているのですか。
- 現存する蒔絵の最初期の作例だからです。金粉とともに珍しい錫を用いた研出蒔絵とみられる技法、奈良時代の遺風を残す左右対称の文様構成が、蒔絵成立期の様相を示す資料として高く評価されています。
- 藤田美術館へのアクセスを教えてください。
- JR東西線「大阪城北詰」駅3番出口から徒歩約2分が最寄りです。京阪「京橋」駅片町口からは徒歩約10分です。
- 同じ館でほかの国宝も見られますか。
- 藤田美術館は世界に三碗のみとされる曜変天目茶碗をはじめ国宝9件を所蔵しています。展示中の作品は時期により異なります。
基本情報
| 名称 | 花蝶蒔絵挾軾(かちょうまきえきょうそく) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(工芸品) 1957年(昭和32年)2月19日指定/重要文化財指定 1956年(昭和31年)6月28日 |
| 員数 | 1基 |
| 時代 | 平安時代(9世紀) |
| 品質・寸法 | 木製漆塗、金・錫による蒔絵 長90.0cm 幅11.8cm 高26.7cm |
| 所有者 | 公益財団法人藤田美術館(大阪市都島区網島町10-32) |
| 公開状況 | 所蔵品の入替展示の中で随時公開(常設ではない)。開館10:00〜18:00、休館12月29日〜1月5日、入館料1,000円(19歳以下無料) |
| アクセス | JR東西線「大阪城北詰」駅3番出口から徒歩約2分、京阪「京橋」駅から徒歩約10分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース「花蝶蒔絵挾軾」(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/507
- 文化遺産オンライン「花蝶蒔絵挾軾」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/178132
- 藤田美術館「1000年以上前の蒔絵」
- https://fujita-museum.or.jp/topics/2020/08/28/1037/
- 奈良国立博物館 特別展「国宝の殿堂 藤田美術館展 曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき」
- https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/201904_fujita/
- 藤田美術館 公式サイト
- https://fujita-museum.or.jp/
最終更新日: 2026.06.10