扇のかたちに残された平安の絵と祈り
四天王寺に伝わる五帖の冊子を開くと、紙面はゆるやかな弧を描く扇のかたちに広がる。雲母を引いた料紙には金銀の切箔が散り、その上に流麗な和様の書体で法華経の経文が写されている。そして文字の下には、十二単の女房、市で品を商う人々、水を汲む女、草花や鳥といった、経典の内容とはまったく関わりのない情景が濃彩のやまと絵で描かれている。
正式の指定名称は「紙本著色扇面法華経冊子(九十八葉)」。扇形に裁った料紙に絵を施し、中央の折り目で二つに折って貼り合わせ、粘葉装の冊子に仕立てた装飾経である。扇面を写経料紙に用いた作例は他に知られておらず、「扇面古写経」の通称でも広く親しまれてきた。
もとは法華経八巻に、開経の無量義経と結経の観普賢経を加えた十帖で一具をなし、扇紙は総計約115枚と推定されている。現在、四天王寺には法華経の巻一・巻六・巻七と開結経二帖の計五帖、九十八葉が伝存する。このほか巻八の完本一帖が東京国立博物館に所蔵され、こちらも別個に国宝に指定されているほか、断簡が各所に分蔵されている。
制作年代を記す奥書はないが、絵画様式や描かれた風俗の検討から、12世紀半ば、院政期の制作とする説が有力である。鳥羽上皇の皇后高陽院による奉納と伝わり、女人成仏を説く法華経への信仰を背景に、宮廷周辺の女性たちの発願で制作されたと考えられている。
国宝指定の理由と美術史上の価値
本品は昭和26年(1951年)6月9日、絵画の部の国宝に指定された(指定番号21)。経典でありながら絵画として指定されている点に、この作品の価値の所在が端的に示されている。
平安時代の世俗画は、現存するものが極めて少ない。寺院に守られた仏画と異なり、扇や屏風に描かれた日常の絵は消耗品として使われ、失われていったからである。本冊子は、当時大量に作られていた扇の地紙、あるいは扇の形式に倣って用意された料紙をそのまま写経に転用したことで、平安後期の扇絵の様式をまとまった形で残す唯一の遺品となった。やまと絵風俗画の源流を考えるうえで、これに代わる資料は存在しない。
技法も注目に値する。料紙は雲母引きとし、金銀の切箔や野毛を散らして装飾する。下絵には木版刷りと墨の肉筆描きが併用されており、絵画表現に版を用いた早い例として印刷文化史の面からも重視されている。版や墨線の上から厚く彩色を施す手法で、貴族の顔は引目鉤鼻の類型で描かれる一方、市井の女性や雑仕の姿は表情豊かに、生き生きと写されている。
各帖の表紙には、法華経の守護神である十羅刹女が描かれる。インドの鬼神に由来する尊格でありながら、その姿は和装の貴婦人として表されており、信仰が平安の宮廷文化の中に深く溶け込んでいた様子がうかがえる。
謹直な写経の文字と、経意とは無関係な世俗の絵。この取り合わせ自体が、信仰と趣味的な美意識とが分かちがたく結びついていた院政期貴族社会の精神のありようを示す史料となっている。
見どころ
よく知られた場面のひとつに「市場図」がある。床几に商品を並べ、売り手と買い手が向かい合う構図で、文献にしか残らない平安の市の様子を絵画として確認できる希少な作例である。ほかにも、女房たちの室内のくつろぎ、梶の葉に歌を書く七夕の風俗、四季の草花や飛ぶ鳥など、画題は多岐にわたる。いずれも扇形という不自由な画面に巧みに収められている点を見比べたい。
書にも目を向けたい。経文は数人の手に分かれて書写されたとみられ、筆ごとの個性を読み取ることができる。墨の文字が下絵の人物の上を横切るところでは、文字と絵が一枚の紙面の中で互いに譲り合うような独特の緊張感が生まれている。
なお、四天王寺宝物館の前には梶の木が植えられている。冊子中の梶の葉を描いた一葉にちなむもので、入館前に足を止めて確かめておきたい。
原本は脆弱な紙製品であるため常設展示はされていない。宝物館では正月、春、秋などに名宝展が開催され、その折に一部の帖や場面が入れ替えで公開されるのが通例である。複製による展示や、館外の特別展への出陳もあるため、原本の拝観を目的とする場合は、四天王寺公式サイトで展観予定を確認してから訪れたい。
周辺情報とアクセス
四天王寺は推古天皇元年(593年)、聖徳太子の建立と伝えられる日本最初の官寺である。特定の宗派に属さない和宗の総本山で、中門・五重塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」は、飛鳥時代の形式を踏襲したものとして知られる。伽藍は度重なる戦災や火災で失われ、現在の中心伽藍は戦後の再建だが、永仁2年(1294年)建立の石鳥居(重要文化財)をはじめ、境内には各時代の文化財が点在する。
宝物館は中心伽藍の東側に位置し、拝観料は大人500円(変更の場合あり)。境内自体は早朝から無料で開放されている。毎月21日の大師会、22日の太子会には骨董市や露店が立ち並び、賑わう境内の光景は、冊子に描かれた市場図と時を超えて重なって見える。
アクセスは、Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅から徒歩約5分、JR「天王寺」駅からは徒歩約12分。天王寺駅周辺にはあべのハルカス、天王寺公園、天王寺動物園、慶沢園などが集まり、半日かけて寺と街を歩くコースが組みやすい。境内西側の一心寺や、聖徳太子ゆかりの勝鬘院(愛染堂)多宝塔(重要文化財)まで足を延ばすのもよい。
Q&A
- 扇面法華経冊子はいつでも見られますか。
- 常設展示はされていません。宝物館で正月・春・秋などに開催される名宝展の際に、一部が入れ替えで公開されます。複製展示の場合や、他館の特別展に出陳されている場合もあるため、事前に四天王寺公式サイトで展観情報を確認してください。
- 指定名称の「九十八葉」とはどういう意味ですか。
- 四天王寺所蔵の五帖に含まれる扇形の紙葉の総数です。この五帖九十八葉が一括して国宝に指定されています。
- 四天王寺以外にも残っているのですか。
- 法華経巻八の完本一帖が東京国立博物館に所蔵されており、こちらも別個に国宝に指定されています。そのほか断簡が国内の諸所に分蔵されています。
- 宝物館内での写真撮影はできますか。
- 原則として館内の撮影はできません。五重塔や石鳥居など境内の屋外は自由に撮影できます。
基本データ
| 名称 | 紙本著色扇面法華経冊子(九十八葉) |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(絵画) 昭和26年(1951年)6月9日指定 指定番号21 |
| 員数 | 5帖(98葉) |
| 時代 | 平安時代(12世紀半ばとする説が有力) |
| 内容 | 法華経巻一・巻六・巻七、無量義経、観普賢経の計5帖 |
| 所有者 | 四天王寺(和宗総本山) |
| 所在地 | 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18 四天王寺宝物館 |
| 公開 | 宝物館の名宝展にて随時公開(常設展示なし)。宝物館拝観料:大人500円(変更の場合あり) |
| アクセス | Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅から徒歩約5分、JR「天王寺」駅から徒歩約12分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース「紙本著色扇面法華経冊子(九十八葉)」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/24
- 文化遺産オンライン「扇面法華経冊子」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/468206
- e国宝「扇面法華経冊子」(東京国立博物館)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100142&content_part_id=000
- 東京文化財研究所「和宗総本山四天王寺所蔵国宝扇面法華経冊子」
- https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/publication/book/hokekyo.html
- 和宗総本山 四天王寺 公式サイト
- https://www.shitennoji.or.jp/
最終更新日: 2026.06.11