三十人の歌人を番えた一巻
紫と藍の繊維を漉き込んだ九枚の料紙に、平安時代を代表する三十人の歌人の和歌、あわせて百三十首が上下二段に書き分けられている。国宝「歌仙歌合(かせんうたあわせ)」は、平安時代、十一世紀の書写と考えられる一巻の巻子で、かな書の最も優れた遺品の一つに数えられる。
歌合とは、平安の宮廷で行われた文芸の遊びである。左右の二方に分かれて題に沿った和歌を詠み、判者が一首ずつ番えて勝負を判定し、その記録を残した。この巻はその競技の形式を借りながら、実際の催しの記録ではない。すでに世を去った歌人を含む各時代の名手を選び、十五番にわたって組み合わせた撰集である。一首ごとに作者二人の歌が上下に並び、巻の長さに沿って向かい合う。
原本には外題がなく、もともとの書名は分かっていない。「歌仙歌合」という呼び名は後世に与えられたものである。所有は大阪府和泉市で、和泉市久保惣記念美術館に収められている。
国宝に指定された理由
本巻は昭和二十七年(一九五二年)三月二十九日、書跡・典籍の部で国宝に指定された。その価値は、何を残したかと、どう書かれたかという二つの面にある。
残されているのは、後世に歌仙とあがめられた三十人の歌人による百三十首である。その選定には、和漢朗詠集を撰し、模範とすべき歌人の典型を定めたことで知られる平安中期の公家、藤原公任(九六六–一〇四一)の見識が反映していると考えられている。ただしこれは確証のある事実ではなく、有力な伝えとして受け止めるのが穏当である。
筆者については、能書として名高く、三跡の一人に数えられ、書の世尊寺流を興した藤原行成(こうぜい、九七二–一〇二七)の手と伝えられてきた。これも伝承筆者であって、行成その人か、あるいは同時代の近しい書き手かは断じがたい。確かなのはその質の高さである。かなが完全な成熟期に達した頃の書風を示し、その様式を自在に操る書き手の確信が筆致にあらわれている。
見どころ
まず料紙を見たい。九枚の紙は「飛雲(とびくも)」という技法で装飾されている。紙を漉く工程で、染めた紫と藍の繊維をところどころに漉き入れる手法で、ここでは雲が大きく、ゆるやかにまとまっている。繊維の疎密や重なりによって色調が微妙に移り変わり、文字の下で地が動いているかのように感じられる。
次に筆である。一首は三行に揃えて書かれ、書写量が多いために字間はやや狭くなる。それでも字形は整って端正で、墨を継ぐたびに濃い黒から渇いた灰へと墨色が変化していく。この墨継ぎの呼吸が紙面に潮のような起伏を与え、均整のとれた配置の中に動勢を生み出している。
歌人の顔ぶれもゆっくり読みたい。一番は柿本人麿と紀貫之、二人の大家を番え、十五番は平兼盛と女流歌人の中務を番える。最初と最後の番はそれぞれ十首を収めて重く据えられ、間の各番はおおむね二首から三首である。恋の歌で名高い小野小町は十一番に置かれている。巻をたどることは、およそ三百年にわたる歌人をひとつの想像上の場に集めて読むことでもある。
訪問にあたって一点、知っておきたいことがある。これほど傷みやすい品は常時の展示ができず、公開は美術館の春の特別陳列などに限られる。常設で見られるものではない。
美術館とその周辺
和泉市久保惣記念美術館は、久保家と紡績商社の久保惣から寄贈された東洋古美術を核として、昭和五十七年(一九八二年)に開館した。「歌仙歌合」は当館が持つ二件の国宝の一つで、もう一件は中国・南宋時代の青磁の花生「万声(ばんせい)」、青みを帯びた釉色で名高い名品である。所蔵品には鎌倉時代の「伊勢物語絵巻」などの重要文化財に加え、剣豪宮本武蔵が枯木にとまる鵙を描いた水墨画もあり、さらにモネの睡蓮やロダンの「考える人」といった西洋美術も含まれている。
美術館は大阪市の南、和泉の丘陵地にある。最も分かりやすい経路は、南海泉北線で和泉中央駅に出て、南海バスの「美術館前」行きに乗り換え、終点付近の「美術館前」で降りる方法である。JR阪和線で来る場合は和泉府中駅でバスに乗り換え、車であれば阪和自動車道の岸和田・和泉インターチェンジから数分で着く。無料駐車場がある。観覧の後は、緑に囲まれた敷地と、街のはずれの静かな住宅地のあたりを歩いてみるのもよい。
Q&A
- いつ行っても実物を見られますか。
- いいえ。光に弱い国宝のため、公開は選ばれた特別陳列の期間に限られ、多くは春に行われます。実物を目当てに訪ねる場合は、事前に展覧会の予定を確認するか、美術館に電話で公開の有無を問い合わせることをおすすめします。
- これは実際の歌合の記録ですか。
- そうではありません。番ごとに歌人を組み合わせる歌合の形式を用いていますが、世代の異なる名手を一巻にまとめた撰集です。一つの催しを書き留めたものというより、競技の体裁に整えた和歌の選集に近いといえます。
- 書いたのは誰ですか。
- 伝承では三跡の一人、藤原行成(こうぜい)の筆とされます。巻に署名はなく、学術的には確定した事実ではなく有力な伝えとして扱われています。
- かな書がそれほど重んじられるのはなぜですか。
- かなは日本語の音を書き表すために生まれた草書体の文字で、流麗な国の文字を可能にしました。本巻はかなが十分に成熟して表現の幅を得た時期のもので、その様式の最高水準に位置づけられます。
- 同じ美術館では他に何が見られますか。
- もう一件の国宝である青磁の花生「万声」のほか、絵巻、水墨画、数千点におよぶ浮世絵版画、少数の西洋美術があります。展示は入れ替わるため、見られる作品は展覧会によって異なります。
基本情報
| 名称 | 歌仙歌合(かせんうたあわせ) |
|---|---|
| 指定 | 国宝(書跡・典籍)/昭和二十七年(一九五二年)三月二十九日指定 |
| 員数 | 一巻 |
| 時代 | 平安時代・十一世紀 |
| 内容 | 三十人の歌人による和歌百三十首を十五番に番え、飛雲の料紙九枚に書写 |
| 伝来・伝承 | 歌人の選定は藤原公任にちなむと伝わり、筆者は藤原行成(こうぜい)と伝承される |
| 所有 | 大阪府和泉市 |
| 所在 | 和泉市久保惣記念美術館(〒594-1156 大阪府和泉市内田町三丁目6番12号) |
| 公開 | 特別陳列などでの限定公開。常設展示なし。開館時間は10時–17時(入館は16時30分まで)、月曜休館 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/614
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203929
- 和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム「歌仙歌合」
- https://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0011552000.html
- 和泉市久保惣記念美術館 交通アクセス
- https://www.ikm-art.jp/access/
- 和泉市「美術館所蔵の国宝や重要文化財」
- https://www.city.osaka-izumi.lg.jp/kakukano/syougaibu/kubosoukinen/faq/kokuho_bunkazai.html
最終更新日: 2026.06.12