紙本著色後鳥羽天皇像 配流前夜に描かれた国宝の似絵
承久3年(1221年)、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、出家して隠岐へ向かう直前、絵師に自らの俗体の姿を描かせたと鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に記されています。大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮が所蔵する「紙本著色後鳥羽天皇像〈伝藤原信実筆〉」は、この記事に対応する作品と考えられてきた肖像画です。縦約40.3センチ、横約30.6センチの紙本に著色された一幅で、昭和28年(1953年)3月31日に国宝に指定されました。
鎌倉時代に興った写実的肖像画「似絵(にせえ)」の代表作とされ、敗者として都を去る上皇の面影を留めた、日本絵画史上でも類例の少ない作品です。
承久の乱と肖像制作の経緯
後鳥羽天皇(1180〜1239年)は第82代の天皇です。源平の争乱のさなか、異母兄の安徳天皇が平家とともに都落ちしたため、寿永2年(1183年)に数え4歳で即位しました。建久9年(1198年)に譲位した後は、土御門・順徳・仲恭の三代にわたり院政を敷き、朝廷の実権を握り続けます。
文化面での事績は際立っています。藤原定家らに命じて『新古今和歌集』を編纂させたほか、自ら刀を鍛え、十六弁の菊紋を彫り込んだと伝わります。これが皇室の菊花紋の起源とされます。蹴鞠、管絃、武芸にも通じ、多芸多能の君主として知られました。
承久3年(1221年)5月、上皇は鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣を発します。承久の乱です。しかし戦いはおよそ1か月で決し、幕府軍が京を制圧しました。上皇は出家のうえ隠岐への配流と定められ、皇子の土御門上皇は土佐(のち阿波)へ、順徳上皇は佐渡へ移されます。
『吾妻鏡』によれば、上皇は落飾に先立ち、似絵の名手・藤原信実を召して出家前の姿を描かせました。本図はその折の作にあたると伝えられています。剃髪すれば俗体の面差しは失われます。在りし日の姿を都に残したいという思いが、制作の動機であったと推察されます。
上皇は隠岐で19年を過ごし、延応元年(1239年)、60歳で崩御しました。
似絵の到達点としての価値
筆者と伝えられる藤原信実は、神護寺三像で名高い藤原隆信の子で、鎌倉前期の宮廷画壇を代表する肖像画家です。平安時代のやまと絵では、貴人の顔は「引目鉤鼻」と呼ばれる類型的な描法で表され、個人の特徴はほとんど描き分けられませんでした。これに対し、細い描線を重ねて実際の顔貌に迫ろうとするのが似絵です。隆信・信実父子はその確立者と位置づけられています。
本図の上皇は烏帽子をかぶった俗体の姿で描かれます。ふくよかに張った頬、まばらな口髭とあご髭など、理想化を排した個性的な容貌表現が見どころで、その描写の確かさから信実の真筆とみなす研究者も少なくありません。ただし画面に署名や落款はなく、指定名称も「伝藤原信実筆」と、伝承筆者であることを明示しています。
なお、描かれた当時の後鳥羽院は譲位後の上皇でしたが、指定名称は「後鳥羽天皇像」です。文化財の登録では、皇位に就いた人物は在位の前後を問わず天皇の称号で記載される慣例によります。
国宝指定は昭和28年(1953年)。文化財保護法下の早い段階で絵画の国宝に選ばれたことは、制作事情を同時代史料で裏づけうる稀有な肖像であること、似絵という画期の基準作であること、そして日本文化史に大きな足跡を残した人物の確かな面影であることが、いずれも高く評価された結果といえます。
実見の機会と複製
本図は水無瀬神宮の社頭では公開されていません。保存のため京都国立博物館に寄託されており、実物を拝観できるのは特別展への出品時に限られます。近年では、令和5年(2023年)秋の東京国立博物館「やまと絵」展、平成31年(2019年)の京都国立博物館「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展などに出品されました。出品の頻度は高くないため、展覧会情報の確認をおすすめします。
常時鑑賞できる複製としては、京都府大山崎町の大山崎町歴史資料館の展示があります。JR山崎駅・阪急大山崎駅から徒歩数分で、水無瀬神宮と併せて巡りやすい立地です。
水無瀬神宮を訪ねる
所蔵者の水無瀬神宮は、後鳥羽上皇が「わがふるさと」と慕った離宮・水無瀬殿の跡地に鎮座します。木津川・宇治川・桂川が合流し、天王山の山裾が迫るこの地を、上皇は都から幾度も訪れました。『新古今和歌集』所収の「見渡せば山もとかすむ水無瀬川」の歌にも、この地の眺めが詠み込まれています。
隠岐で崩御する13日前、上皇は自らの手形を朱で押した置文をしたため、後生の弔いを水無瀬の旧臣に託しました。この「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」も国宝で、同じく京都国立博物館に寄託されています。遺勅を受けた水無瀬信成・親成父子は、仁治元年(1240年)に離宮跡へ御影堂を建立しました。これが当宮の起源です。明応3年(1494年)には隠岐から神霊を迎え、明治6年(1873年)の神仏分離を経て神社となり、同じく配流先で崩御した土御門・順徳両天皇を合祀しました。昭和14年(1939年)に神宮号を許され、大阪府で唯一の「神宮」となっています。
境内には見どころが点在します。桃山時代の建立と伝わる神門の柱には、名刀を盗みに入ろうとして果たせなかった石川五右衛門の手形と伝わる跡が残ります。客殿と茶室「灯心亭」はいずれも国の重要文化財です。手水舎脇に湧く「離宮の水」は環境庁(当時)選定の名水百選に大阪府で唯一選ばれた湧水で、早朝から汲みに訪れる人の列が絶えません。夏には参道に数百個の風鈴を吊るす「招福の風」が催され、近年は競技かるたゆかりの地としても親しまれています。
周辺情報とアクセス
水無瀬神宮へは、阪急京都線「水無瀬駅」から徒歩約10分、JR京都線「島本駅」から徒歩約10分、JR「山崎駅」からは徒歩約15分です。京都駅・大阪駅のいずれからも電車で30分前後と、両都市からの半日行程に向いています。境内拝観は無料です。
- サントリー山崎蒸溜所:日本のウイスキー発祥の地。見学は事前予約制。徒歩約15分。
- アサヒグループ大山崎山荘美術館:大正期の山荘建築にモネの睡蓮などを展示。山崎駅から送迎バスあり。
- 大山崎町歴史資料館:後鳥羽天皇像の複製のほか、山崎合戦関係資料を展示。
- 島本町立歴史文化資料館:神宮に隣接し、水無瀬離宮と町内の文化財を紹介。
- 桜井駅跡(楠木正成・正行父子訣別の伝承地):島本駅前の史跡公園。
Q&A
- 後鳥羽天皇像は水無瀬神宮で見られますか。
- 社頭での公開は行われていません。原本は京都国立博物館に寄託されており、特別展への出品時のみ実見できます。複製は大山崎町歴史資料館で常時見学できます。
- 本当に藤原信実が描いたのですか。
- 画面に署名はなく、指定名称も「伝藤原信実筆」です。ただし『吾妻鏡』に配流前の肖像制作の記事があり、顔貌描写の水準からも信実の真筆と認める研究者が多い作品です。
- 上皇の肖像なのに、なぜ「天皇像」と呼ぶのですか。
- 文化財の指定名称では、皇位に就いた人物は在位の前後を問わず天皇の称号で登録される慣例があるためです。制作当時の後鳥羽院は譲位後23年を経た上皇でした。
- 水無瀬神宮には他にどんな文化財がありますか。
- 国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」のほか、重要文化財の客殿、茶室「灯心亭」、後鳥羽院宸翰御消息などを所蔵しています。置文も京都国立博物館に寄託されています。
- 参拝の所要時間とおすすめの季節は。
- 境内の拝観は30分から1時間ほどが目安です。春の枝垂桜、夏の風鈴の催し「招福の風」、秋の紅葉と、季節ごとに趣が変わります。受付時間は概ね9時から17時です。
基本情報
| 名称 | 紙本著色後鳥羽天皇像〈伝藤原信実筆〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 国宝(絵画) 昭和28年(1953年)3月31日指定 |
| 員数 | 1幅 |
| 時代 | 鎌倉時代(13世紀)。承久3年(1221年)の制作と伝わる |
| 寸法 | 縦約40.3センチ×横約30.6センチ |
| 作者 | 伝藤原信実 |
| 所有者 | 水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24) |
| 保管 | 京都国立博物館寄託。常時公開なし |
| 神宮アクセス | 阪急京都線「水無瀬駅」徒歩約10分、JR京都線「島本駅」徒歩約10分 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)「紙本著色後鳥羽天皇像〈伝藤原信実筆〉」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/79
- 文化遺産オンライン「紙本著色後鳥羽天皇像〈伝藤原信実筆〉」
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/125477
- 水無瀬神宮 公式サイト
- https://www.minasejingu.jp/info.html
- WANDER 国宝「後鳥羽天皇像[水無瀬神宮/大阪]」
- https://wanderkokuho.com/201-00079/
最終更新日: 2026.06.11