悲しみが生んだ三十三巻

元久3年(1206年)の春、朝廷で摂政・太政大臣をつとめた歌人、藤原良経がにわかにこの世を去った。まだ三十代の若さであった。後鳥羽上皇がその死を深く悲しみ、中宮の宜秋門院を中心として追善の写経が営まれたという。このとき書写されたとされる装飾経が、埼玉県ときがわ町の古刹・慈光寺に受け継がれた国宝「法華経一品経」、通称「慈光寺経」である。

「一品経」とは、法華経をその二十八品(章)ごとに分け、一品ずつ別の巻物に書写する形式をさす。慈光寺経はこの形をとり、法華経の各品に阿弥陀経・般若心経を加えて、計三十三巻として国宝に指定されている。

国宝に指定された理由

慈光寺経が国宝に指定されたのは昭和29年(1954年)3月29日、区分は書跡・典籍である。その評価をささえているのは、まず作品としての格の高さである。美術史では久能寺経・平家納経とならぶ三大装飾経の一つに数えられ、鎌倉時代初頭という制作年代から、しばしばこの系譜の最後を飾る作例として位置づけられる。

装飾経は、読むためだけの経典ではない。経を書写すること自体が功徳とされ、富裕な施主はその写経を可能なかぎり美しく仕立てることで功徳を重ねようとした。一品経の形式は、この願いによく合う。一巻ごとに筆者を変え、装飾も別々の手にゆだねることで、ひとつの発願のもとに多くの公家の能書家や絵師が一巻ずつ筆をとることができたからである。

料紙は白・紫・薄茶・藍などに染め分けられ、金銀の切箔や砂子が散らされている。銀泥でひかれた淡い界線が、文字の列を静かに導く。一巻ごとに意匠が異なるため、三十三巻を見わたすと、一冊の書物というよりも、同じ祈りで束ねられた個々の作品の集まりのように映る。

見どころ

とりわけ目をとめたいのは、各巻の巻頭、本文に先立って表された見返し絵である。これは続く一品の経意を絵画化した小さな大和絵で、ある巻では、重なりあう山並みと木々のかなたから朝日がのぼり、清らかな蓮池を照らす情景が描かれる。蓮の葉の緑は、およそ八百年を経てなお鮮やかに残る。

巻によっては、絵と文字の境がとけあう。葦手書(あしでがき)とよばれる技法で、経文の文字が葦や水、岩のなかにひそめて描かれ、読むことと見ることがひとつになる。

実物を目にするには、少し計画がいる。原本は保存のため東京国立博物館と奈良国立博物館に寄託されており、各巻はそれらの特別展や他館への貸し出しで比較的しばしば公開される。慈光寺には精巧な複製が展示され、一部の品は陶板による模写で見ることができるため、寺を訪れてもこの作品に近づくことができる。

慈光寺とアクセス

慈光寺は、埼玉県比企郡ときがわ町、都幾山の木立深い山腹にある天台宗の寺院である。寺伝はその草創を七世紀にさかのぼらせ、鑑真の高弟であった釈道忠が宝亀元年(770年)ごろに開山したと記す。埼玉県でも有数の古刹とされる。坂東三十三観音の第九番札所として長く巡礼者を迎え、のちには源頼朝や徳川将軍家の帰依も受けた。

参道を登る道すがら、足をとめたい場所がいくつかある。観音堂には、夜になると抜け出して暴れたという伝説をもつ「夜荒しの名馬」の彫刻があり、左甚五郎の作と言い伝えられる。境内の近くには古い多羅葉の木が立つ。その葉に先の尖ったもので傷をつけると文字が浮かぶことから、葉書の語源にまつわる言い伝えが残る。

車であれば関越自動車道の東松山インターチェンジから約三十分で、駐車場もある。電車の場合、最寄りはJR八高線の明覚駅で、そこから寺の方面へ路線バスが出ている。終点付近の便は運休となることがあるため、最新の運行情報を確かめ、町の予約制乗合タクシーの利用も検討するとよい。参拝のあとには、近くの三波渓谷に日帰り温泉があり、手打ちのそばも味わえる。

Q&A

Q慈光寺で実物の経巻を見られますか。
A原本は保存のため東京国立博物館と奈良国立博物館に寄託されています。慈光寺では精巧な複製や陶板による模写が展示され、原本は博物館の特別展などで折にふれて公開されます。
Qなぜ三十三巻もあるのですか。
A法華経を一品(章)ごとに別の巻に書写する「一品経」の形式をとっているためです。これに阿弥陀経・般若心経が加わり、国宝指定の総数は三十三巻となっています。
Q「装飾経」とは何ですか。
A染め紙や金銀の箔、見返し絵などで華やかに仕立てた写経をいいます。美しさそのものを信仰の捧げものとしたもので、慈光寺経は日本を代表する三大装飾経の一つに数えられます。
Q公共交通機関での行き方を教えてください。
AJR八高線の明覚駅で下車し、寺の方面への路線バスに乗り継ぎます。終点付近の便が運休することがあるため、町の予約制乗合タクシーを使うと確実です。
Q周辺に他の見どころはありますか。
A境内には観音堂や古い多羅葉の木があり、関東平野を見わたす展望もひらけます。近くの三波渓谷には日帰り温泉があり、ときがわ周辺は手打ちそばや建具、手漉き和紙でも知られます。

基本情報

名称法華経一品経(慈光寺経)
指定区分国宝(書跡・典籍)
指定年月日昭和29年(1954年)3月29日
時代鎌倉時代(13世紀初頭)
員数33巻
所有者慈光寺
所在地埼玉県比企郡ときがわ町
保管東京国立博物館・奈良国立博物館に寄託(慈光寺に複製を展示)
アクセス関越自動車道東松山ICより車で約30分/JR八高線明覚駅よりバス・乗合タクシー

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/603
都幾山 慈光寺 公式サイト
https://www.temple.or.jp/
慈光寺 宝物紹介ページ
https://www.temple.or.jp/treasure
埼玉県立歴史と民俗の博物館 特別展「慈光寺」
https://saitama-rekimin.spec.ed.jp/tokubetsukikakuten/kakotokubetsuten/jikouji

最終更新日: 2026.06.09