言葉を持たない神楽

年に四度、日付の決まった祭礼の午後、玉敷神社の境内に建つ茅葺きの神楽殿に、笛一管と太鼓二張の音が満ちる。仮面をつけた舞人が高い木の舞台にあがり、四方の隅へ向かってゆっくりと舞い進んでいく。歌はなく、科白もない。これが玉敷神社神楽である。平成20年(2008年)、国の重要無形民俗文化財に指定された。

神社が鎮座するのは、埼玉県北東部、加須市の騎西地区。利根川と荒川がつくった沖積地の、起伏の少ない平野のなかにある。この一帯を訪れる人の多くは藤を目当てにやって来る。祭礼の日に神楽を見にくる人はずっと少ない。だからこそ訪ねる価値がある。観客のためではなく、まず神々に捧げられる舞だからである。

江戸時代に根を張った伝承

この神楽がいつ始まったかを直接記した文書は残っていない。ただ、手がかりはどれも同じ方向を指している。舞に用いる面のひとつには正保年間(1644~1648年)の年号が記されている。神社の神職を勤めた河野長門守盛永(こうのながとのかみもりなが、1688~1736年)は、神社の要事を覚え書き風に書き留めた『要用集』に、享保4年(1719年)3月と同19年(1734年)4月に太々神楽が行われたと記した。さらに文政5年(1822年)の年記をもつ4通の文書には、同社の神楽師が神楽役としての裁許を当時の神祇管領から受けたことが残されている。

これらを重ね合わせると、玉敷神社神楽は江戸時代を通じて行われてきたことが確かであり、起源は遅くとも17世紀後半までさかのぼるとされる。地元には400年以上の歴史をもつとの伝えがある。

その長い時間のほとんどを通じて、神楽を担ってきたのは隣接する正能(しょうのう)地区の限られた家々であった。正能は、玉敷神社が二度の遷座を経て現在地に落ち着く以前に鎮座していた土地でもある。技芸は父から長男へと受け継がれ、その伝承はおよそ十数軒の家のなかに閉じられていた。昭和50年(1975年)、十数軒で支え続けることが難しくなったのを受け、地域は玉敷神社神楽保存会を組織した。正能地区の人々を中心に据えつつ、有志を加えて伝承する体制である。保存会は今も舞い続けている。

なぜ指定されたのか

平成20年の指定は、二つの理由に支えられている。芸能の変遷の過程を示すものであること。そして、地域的特色を示すものであること。どちらも少し説明を要する。

関東一円に伝わる神楽の多くは、演劇的な性格を強く帯びている。科白を語る登場人物がいて、筋があり、笑いを誘う場面が挟まれる。玉敷神社神楽はそれとは異なる原理で動く。仮面の下、ほぼ無言のまま、様式化されたひとつの所作の繰り返しによって進んでいくのである。他の神楽が観客を楽しませる方向に展開したのに対し、この神楽は様式の反復に向かって凝縮した。民俗芸能の研究者がこの舞を重んじるのは、ほかでもなくその抑制のためである。賑やかな様式が上書きしてしまった、より古い段階の神楽の姿が、ここには残されている。関東の神楽がどのように広まり変化したかを跡づけるうえで、貴重な手がかりとなる。

四方固め ― 見どころはどこか

この神楽の中心にある所作は、四方固め(しほうがため)と呼ばれる。舞台の中央を起点とし、対角線上をひとつの隅へ向かって舞い進み、また中央へ戻って次の隅へと向かう。北西の隅から北東、南東、南西へと順に巡っていく。座によって舞い進む順路や手にする採物には違いがあるが、根本の図形は変わらない。一度この型に気づくと、十八座すべてが、ひとつの静かな主題の変奏として見えてくる。

どの座も三つの部分に分かれている。舞人は舞台下手の出入り口から登場し、囃子方の前を一巡りして正面を向く。続く本舞が四方固めを軸に展開し、最後はほぼ一直線に幕へと退いていく。保存会では、登場部分を「出(で)」、退場部分を「シッコミ」と呼び、中心の舞をはさむ定まった枠として区別している。

伝承される演目は十八座。うち十六座が本来の演目で、二座は番外として伝えられている。創造の神である伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の連舞、丸顔の道化「おかめ」の舞、鬼を退ける鍾馗(しょうき)が鬼と対峙する「鬼に鍾馗」、そして全員が舞い巡る唯一の演目「山めぐり」などがある。座の順番はあらかじめ決まっていない。その祭礼に参加した神楽師の人数によって、演じる座と座数が決められる。

囃子にも耳を傾けたい。伴奏は、鋲留(びょうど)め太鼓、カッコと呼ばれる小ぶりの締太鼓、そして笛が、それぞれ一人ずつ。基本となる調子は四つある。静かな平(ひら)神楽、荒ぶる神の舞に用いる急調子の速(はや)神楽、笛を用いず太鼓だけで奏する三ツ拍子、そして「おかめの舞」だけに使われる中間の中速(なかはや)神楽である。

訪れるにあたって

神楽を見るなら、四度の祭礼日に合わせて旅程を組みたい。2月1日の初春祭、5月5日の春季大祭、7月15日の夏季大祭、12月1日の例大祭である。奉納は午後、本殿の西側に東を正面として建つ神楽殿で行われる。日程は変わることがあるため、訪れる前に神社や加須市の文化財担当へ確認しておくとよい。

神楽殿そのものも、ぜひじっくり見ておきたい。神社の資料によれば天保7年(1836年)の建築で、茅葺きの屋根と三方を吹き抜けにした構えを今に保っている。地表から一メートル半ほどの高さに正方形の舞台があり、四隅に柱が立つ。舞台正面の縁には三本の幣束が立てられ、神々の座を示す。舞人は観客ではなく、この神座に向かって舞う。その向きを知っておくと、舞の見え方が変わってくる。観客は正面席のための上演ではなく、ひとつの奉納に立ち会っているのである。

2月1日の初春祭は、だるま市と重なる。参道には赤い縁起だるまを売る露店が並ぶ。同じ午後に奉納される神楽の静けさと、にぎやかな対照をなす一日である。

神社のまわりを歩く

玉敷神社は、埼玉でも名高い藤と場所をともにしている。隣接する玉敷公園には、樹齢400年以上と推定される大藤がある。昭和8年(1933年)に現在地へ移されたもので、4月下旬から5月上旬の騎西藤まつりの時期には多くの見物客が集まる。一帯には「ふじとあじさいの道」と呼ばれる約1.5キロの遊歩道があり、数千株のあじさいが6月中旬に色づく。

この町には古い層も重なっている。中世から17世紀前半にかけて、騎西は私市(きさい)城の城下町であり、のちには街道の宿場を結ぶ交通の要衝でもあった。周辺の道を少し歩けば、その歴史の名残が今も感じられる。玉敷神社自体、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』神名帳に名を連ねる古社であり、長く埼玉郡の総鎮守として尊崇されてきた。これほど丁寧に守られてきた神楽がこの地に根づいたのも、そうした神社の重みと無縁ではないだろう。

Q&A

Q神楽はいつ見られますか。
A毎年決まった四度の祭礼日、2月1日・5月5日・7月15日・12月1日に奉納されます。いずれも午後、境内の神楽殿で行われます。時間は変わることがあるため、事前に神社や加須市の文化財担当へご確認ください。
Q関東の他の神楽とはどこが違うのですか。
A関東の神楽の多くは科白や筋をもつ演劇的なものですが、玉敷神社神楽は歌も科白もまったく用いません。四方固めと呼ばれる様式化された所作の繰り返しによって進行し、舞人が舞台の四隅を順に固めていく点に特色があります。
Q演目はいくつあり、どの座が見どころですか。
A伝承される演目は十八座です。創造の神である伊弉諾・伊弉冉の連舞、道化の「おかめの舞」、鬼と対峙する「鬼に鍾馗」、全員が舞い巡る唯一の演目「山めぐり」などが知られています。
Q玉敷神社へのアクセスを教えてください。
A東武伊勢崎線の加須駅から鴻巣方面行きのバスに乗り、「騎西一丁目」で下車、徒歩約7分です。JR高崎線の鴻巣駅からもバスで向かうことができます。
Q周辺に見どころはありますか。
A神社に隣接する玉敷公園は、樹齢400年以上と推定される藤で知られ、見頃は4月下旬から5月上旬です。近くにはあじさいの遊歩道もあり、6月中旬が見頃です。城下町であった騎西の古い町並みも散策に向いています。

基本情報

名称玉敷神社神楽(たましきじんじゃかぐら)
所在地埼玉県加須市騎西552-1 玉敷神社
指定区分重要無形民俗文化財(平成20年〈2008年〉3月13日指定)/昭和49年に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択
種別民俗芸能・神楽
演目18座(本来の16座と番外2座)
保護団体玉敷神社神楽保存会(昭和50年組織)
奉納日毎年2月1日・5月5日・7月15日・12月1日、午後、境内神楽殿にて
アクセス東武伊勢崎線・加須駅から鴻巣方面行きバス「騎西一丁目」下車、徒歩約7分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース 玉敷神社神楽
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/302/00000850
文化遺産オンライン 玉敷神社神楽
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204193
加須インターネット博物館 玉敷神社神楽
https://www.kazo-dmuseum.jp/03folk/02kagura/kg_tamashiki.htm
玉敷神社 公式サイト
http://www.tamashiki.or.jp/about.html
加須市 加須市騎西藤まつり・加須市騎西あじさい祭り
https://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/kasai_chiikishinkou/event/6359.html

最終更新日: 2026.05.25