寂室元光墨蹟〈遺偈〉―― 臨終の日に記された一幅
貞治6年(1367年)9月1日、近江の山あいに建つ一寺で、78歳の老僧が数行の偈を墨で記し、筆を置いて息を引き取った。臨済宗永源寺派の開山、寂室元光である。その日に揮毫された墨書が、現在も永源寺に蔵される重要文化財「寂室元光墨蹟〈遺偈/貞治六年九月一日〉」、紙本墨書の一幅にほかならない。遺偈とは、禅僧が臨終に臨んで門弟に遺す偈頌をいう。作品の正式名称には、その記された日付がそのまま刻み込まれている。
寂室元光は正応3年(1290年)、美作国高田(現在の岡山県真庭市)に生まれた。幼くして仏門に入り、15歳で出家したのち、鎌倉や京の諸師に参じた。元応2年(1320年)、31歳で元に渡り、およそ7年にわたって中峰明本をはじめとする尊宿のもとで修行を積んでいる。「寂室」の号は、天目山に隠棲していた中峰から授けられたものである。定住を求めず山中に静かな修行の生を送るという中峰の幻住の思想は、その後の寂室の生き方を方向づけた。
嘉暦元年(1326年)に帰朝してからは、備前・美作の地を中心におよそ35年を隠遁して過ごした。鎌倉や京の五山官寺への住持の請が再三寄せられたが、寂室はことごとくこれを辞退し、生涯を黒衣の平僧として終えている。例外は晩年の永源寺開創であった。延文5年(1360年)、近江守護佐々木氏頼の帰依を受け、寄進された雷渓の地に翌年寺を開く。それから6年後、寂室はこの寺で世を去り、最期の日に揮毫された遺偈が寺宝として遺された。
遺偈という墨蹟の価値
禅僧の真跡を、日本では墨蹟という。中国における広い語義とは異なり、日本では禅林の高僧の筆跡という限られた範囲を指す語として用いられ、その書風は禅宗様と呼ばれる。室町時代に茶の湯が成熟するにつれ、墨蹟は茶席の第一の掛軸として揺るぎない地位を占めるようになった。書としての出来栄えに加え、書き手その人の境涯が一幅に宿るとみなされたためである。
数ある墨蹟のなかでも、遺偈は別格の扱いを受ける。一生の修行を通じて到達した悟りの境地が、臨終という一点に凝縮されて記されるからである。多くは衰えゆく自らの手で書きとめられ、それゆえに生前のいかなる書よりも書き手の人となりが直接にあらわれるとされた。寂室の遺偈は、命の尽きるその日に筆を執って記されており、史料としての確かさと、最期の一言が帯びる緊張とをともに備えている。
本幅が重要文化財に指定されたのは昭和33年(1958年)2月8日のことである。寂室は当時から詩文と書に秀でた禅僧として知られ、現存する遺墨の少なからぬものが重要文化財に指定されている。その書には、渡元によって体得した大陸の書法、とりわけ趙孟頫の影響を受けた当代の書風がうかがえる。生涯にわたって高位の官寺を退け続けた者の簡素さと、海を渡って学んだ書法とが、この遺偈の一幅に重なり合っている。
見どころと、遺誡との関わり
本幅は人に見せるための整った揮毫ではない。長い生涯の末日という、ある特定の一日の痕跡である。その直截さにこそ、この作品の関心は向けられるべきだろう。伝えるところによれば、寂室はまず門下への遺誡を書きとめ、続いて遺偈を記し、そののち手にしていた筆を投げ捨てて遷化したという。この経緯を念頭に置いて一幅に向き合うと、その筆運びは装飾ではなく、生を閉じる最後の所作の記録として立ちあらわれてくる。
あわせて知っておきたいのが、その遺誡の内容である。寂室は、自身の死後は建物も寄進された寺領もすべて領主に返上し、衆は山を去ること、大寺に近寄らず、一人ひとりが釈迦の教えを守って修行に励むことを遺命した。許したのはただ、人々がどうしても望むのであれば、永源寺を修行の道場として残してよいということだけであった。遺偈とこの遺誡は一対のものである。いずれにも、生涯を貫いた華美への拒絶があらわれている。
実際的な点をひとつ補足しておきたい。本幅は損傷に弱い寺宝であり、常時公開されているわけではない。寂室の筆そのものに対面したい場合は、訪ねれば必ず見られるというものではなく、寺の特別な公開や、各地で催される展覧会への出展の機会をうかがうのが現実的である。
永源寺と周辺の見どころ
永源寺は、琵琶湖の東、東近江市の愛知川上流の渓谷に位置する。臨済宗永源寺派の大本山であり、多くの参拝者にとって最大の魅力は秋の紅葉にある。11月になると、参道や諸堂の周囲の楓が深い紅と黄に色づき、湖東を代表する紅葉の名所として知られる。
寺が蔵するのは遺偈だけではない。塑造の寂室和尚坐像もまた重要文化財で、康暦元年(1379年)、寂室の十三回忌に際して造立されたものである。中世の塑像は日本では数が乏しく、本像はその古さに加え、後世が開山の人柄を写したとみなした厳しくも穏やかな表情において貴重とされる。境内をめぐり、開山堂や山門、眼下の渓谷に立てば、寂室が求めた静寂の生のありようがおのずと感じ取れる。
永源寺へは、琵琶湖沿いの本線から近江八幡または八日市を経て、近江鉄道とバスを乗り継いでほどなく着く。渓谷の散策と、季節によっては紅葉とを組み合わせて訪ねる人が多い。拝観時間や志納料は季節や行事によって変動するため、出発前に寺へ最新の情報を確認しておくとよい。
Q&A
- 遺偈とは何ですか。なぜこの一幅は重要なのですか。
- 遺偈とは、禅僧が臨終に臨んで門弟に遺す偈頌で、到達した悟りの境地を示す最後の表明です。寂室はこれを貞治6年(1367年)、命の尽きる当日に自らの手で記しました。その直截さゆえに重要文化財に指定されています。
- 永源寺を訪ねれば、この墨蹟を見られますか。
- 通常は拝観できません。本幅は損傷に弱い寺宝で、常設展示はされていません。特別公開や展覧会への出展のときに限って公開されますので、原本をご覧になりたい場合は事前にご確認ください。境内や紅葉ははるかに気軽に楽しめます。
- 寂室元光とはどのような人物ですか。
- 1290年から1367年まで生きた臨済宗の禅僧です。元に渡って7年間学んだのち、生涯の多くを隠遁して過ごし、五山官寺の住持の請を再三辞退しました。71歳で永源寺を開き、その6年後に同寺で世を去りました。
- 永源寺を訪ねるのに最も良い時期はいつですか。
- 楓が見頃を迎える11月の中旬から下旬です。永源寺は湖東を代表する紅葉の名所のひとつで、渓谷に抱かれた立地もあって、この季節の参拝はとりわけ見ごたえがあります。
- 墨蹟とは何ですか。
- 日本では、禅僧の真跡を墨蹟と呼びます。中国の書法を母体に成った書風で記され、室町時代以降は茶席で最も重んじられる掛軸となりました。書そのものに加え、書き手の境涯が宿るものとして尊ばれてきました。
基本情報
| 名称 | 寂室元光墨蹟〈遺偈/貞治六年九月一日〉 |
|---|---|
| ふりがな | じゃくしつげんこうぼくせき |
| 指定区分 | 重要文化財(書跡・典籍) 昭和33年(1958年)2月8日指定 |
| 時代・年代 | 南北朝時代 貞治6年/正平22年(1367年) |
| 員数・形状 | 1幅 紙本墨書 |
| 筆者 | 寂室元光(1290年〜1367年) |
| 所有者 | 永源寺(滋賀県東近江市) |
| 公開状況 | 永源寺所蔵。常時公開はされていない |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8455
- 文化遺産オンライン(国立文化財機構)
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/133787
- 臨済宗永源寺派 大本山 永源寺 開山寂室禅師
- https://eigenji-t.jp/kaizan/
- 滋賀県立琵琶湖文化館 近江の文化財もの語り(寂室元光)
- https://www.biwakobunkakan.jp/monogatari/monogatari009.html
最終更新日: 2026.06.20