712年の年号をもつ写経

滋賀県南部の山あいに建つ臨済宗の寺院、太平寺に、千三百年余りを経た写経が142帖残されている。大乗仏教の根本経典のひとつ『大般若経(大般若波羅蜜多経)』の一部で、巻末の奥書に「和銅五年」、すなわち西暦712年にあたる年号が記されている。書写された年がはっきりしている『大般若経』としては、これが日本で最も古い。

所在地は甲賀市土山町鮎河。研究の世界では、奥書の年号にちなんで「和銅経」、より詳しくは長屋王願経と呼ばれる。昭和37年(1962年)に国宝へ指定された。

長屋王が六百巻を書写させた理由

全巻そろえば600巻にのぼる『大般若経』は、唐の僧・玄奘が660年から663年にかけて漢訳した経典である。712年の書写は、漢訳の成立からおよそ半世紀のちにあたる。

発願したのは、奈良時代前期の朝廷で大きな力をもった長屋王である。天武天皇の孫で高市皇子の長子にあたり、当時は式部卿の任にあった。奥書によれば、慶雲4年(707年)に没した従兄の文武天皇の冥福を祈るため、600巻すべてを書写させたという。

書写の場は、奥書が「北宮」と記す邸宅であった。近年の長屋王邸跡の発掘調査をふまえ、研究者はこれを長屋王の妃で文武天皇の妹にあたる吉備内親王の宮とみている。この読み方に従えば、写経は妃の側の追善の意をも汲んだ事業だったことになる。

長屋王自身の晩年は不遇だった。神亀6年(729年)、謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれる。台頭する藤原氏が政敵を退けた動きとみられている。発願した経典は、その後も千年以上にわたって残り続けた。

国宝に指定された理由

和銅経の価値は大きく二点にある。ひとつは年代の確かさである。奈良時代の写経は数多く残るが、書写の年がはっきり記された例は限られる。712年と明記されたこの経は、年代の知れない写経を位置づけるための基準点となる。

もうひとつは書そのものである。本文は黄麻紙に、ふつう字配りを整えるために引く界線を引かずに書写されている。字は小ぶりながら筆勢が強く謹厳で、隋から初唐の書風に近い。本文は6、7人の写経生が分担し、巻頭の発願文は2人の筆になると指摘されている。興味深いのは、本文の書写後に加えられたはずの発願文のほうが、六朝風の古い書きぶりを示している点である。

三つの寺に分かれた一具

当初の600巻はひとまとまりのまま残らなかった。現在確認できるのは220巻余りである。最も多くを保持するのが太平寺の142帖で、同じ土山の谷あいにある常明寺が27帖(こちらも国宝)、見性庵が43帖(重要文化財)を保持する。このほか十数巻が各地の美術館や個人のもとに分散し、東京国立博物館も巻第二十三の一帖を所蔵する。

伝来については、奈良の薬師寺から安土近くの桑実寺を経て、土山の三寺に至ったといわれる。その道のりのどこかで装幀も改められた。もとは巻子本だったものが折本に仕立て直され、太平寺の数え方「帖」はこの折本の形に由来する。

太平寺と鮎河の里

太平寺は臨済宗東福寺派の寺院で、延徳3年(1491年)に高岳禅師が開いたと伝えられ、本尊に聖観音をまつる。博物館ではなく現役の寺であり、国宝の写経はふだん公開されていない。これほど古く傷みやすい料紙の写経は収蔵庫に納められ、特別な機会に限って人目に触れる。多くの参拝者の目当ては、むしろ寺をとりまく風景にある。

その風景こそ、この地を訪ねる理由になっている。鮎河は鈴鹿の山裾に位置し、集落を貫くうぐい川の両岸におよそ200本の桜が並ぶ。近くの青土ダム周辺まで含めると千本ともいわれ、春には多くの花見客が集まる。山あいにあるため、開花は平地より1週間ほど遅く、例年4月上旬から中旬にかけてが見ごろとなる。

それ以外の季節の谷は静かで、田村神社や大河原の温泉宿、青土ダムの水辺の散策などが近い。鮎河へは車が便利で、新名神高速道路の甲賀土山インターチェンジから約20分。鉄道ならJR草津線の貴生川駅から甲賀市のコミュニティバスで土山方面へ約40分かかるが、便数が少ないため事前に時刻を調べておきたい。桜の時期は道が混み合うので、バスの利用が無難である。

Q&A

Q『大般若経』とはどのような経典ですか。
A大乗仏教の根本経典のひとつで、全部で600巻からなる『大般若波羅蜜多経』を指す。太平寺に残るのは、その初期の写本の一具である。
Qなぜ「和銅経」と呼ばれるのですか。
A奥書に記された年号「和銅五年」(712年)にちなむ。書写の年がこの年号で明示されているため、和銅経の名で知られる。
Q寺で実物の写経を見ることはできますか。
A原則として公開されていない。傷みやすい国宝のため収蔵庫に納められ、博物館への貸し出しなど特別な機会に限って公開される。参拝者の多くは境内や桜を目当てに訪れる。
Q鮎河を訪ねるのに適した時期はいつですか。
Aうぐい川沿いの桜が咲く4月上旬から中旬がよい。山あいのため、開花は周辺の平地より1週間ほど遅い。
Q公共交通機関での行き方を教えてください。
AJR草津線の貴生川駅から、土山方面へ向かう甲賀市コミュニティバスでおよそ40分。便数が少ないので、時刻表を確かめてから出かけるとよい。

基本情報

名称大般若経(和銅五年長屋王願経/通称「和銅経」)
員数142帖
種別書跡・典籍
時代・年代奈良時代・和銅5年(712年)
指定区分国宝(昭和37年〔1962年〕6月21日指定)
指定番号00248
所有者・所在地太平寺(滋賀県甲賀市土山町鮎河)
公開状況境内は参拝可。写経本体は通常非公開

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/758
文化遺産オンライン(文化庁)大般若経 巻第二十三(和銅五年長屋王願経)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/146717
e国宝(国立文化財機構)大般若経 巻第二百五十
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101010
滋賀県観光情報(公式)太平寺
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/3947/
甲賀市観光ガイド 鮎河の千本桜
https://koka-kanko.org/see/ayukawanosenbonzakura/

最終更新日: 2026.06.10