弟子に「去れ」と命じた一通

貞治六年(一三六七)の秋、永源寺で死の床にあった禅僧・寂室元光は、自らが築いたものを守れとは言い残さなかった。むしろ正反対の指示を与えている。守護・佐々木氏頼から寄進された土地はもとに返すこと。堂宇はこの地の長老たちに譲ること。集まってきた修行僧は散り散りになって、それぞれの道を行くこと。寂室はこれを書きつけ、短い遺偈を添えると、手にした筆を投げ捨てて、七十八歳で息を引き取ったと伝えられる。

その指示を記した紙が、いまも残っている。「紙本墨書寂室和尚遺誡(しほんぼくしょじゃくしつおしょうゆいかい)」と呼ばれるこの一幅は、南北朝期の紙本墨書で、寂室自身が「去れ」と命じた当の寺、永源寺に所蔵されている。弟子たちは、その遺誡に従わなかった。寂室を慕って集った人々はこの地にとどまり、師の禅風を継ぐことを選んだ。やがて永源寺は、臨済宗の一派を束ねる大本山へと育っていく。

遺誡とは、禅僧が末期に際して門下に書き残す訓戒であり、最期の境地を記す遺偈と対をなす。その多くは修行への励ましに収まる。寂室のそれは、整った大寺院という仕組みそのものを拒む文面であり、一人の禅僧が思い描いた修行の姿を、これほど直截に書きとめた例は珍しい。

寂室元光という禅僧

寂室元光は正応三年(一二九〇)、美作国高田、いまの岡山県真庭市に生まれた。幼くして仏門に入り、蘭渓道隆の法系に連なる約翁徳倹のもとで修行を積む。元応二年(一三二〇)には元に渡り、天目山に隠棲する中峰明本を訪ねた。寂室の号は、この中峰から授かったものである。同時に寂室が受け継いだのは、定住せず静かな山中で生涯を修行に費やすという中峰の幻住の思想であった。

嘉暦元年(一三二六)ごろに帰国すると、その後の三十年ほどを行脚に費やす。小さな庵や寺を開いては離れ、その足跡は西は中国地方、東は中部地方の各地に及んだ。朝廷や室町幕府は、天龍寺や建長寺といった京鎌倉の大刹の住持に寂室を据えようとしたが、寂室はそのつど固辞している。

例外が訪れたのは晩年であった。延文五年(一三六〇)、近江守護の佐々木氏頼が、琵琶湖東方の山あいにある雷渓という勝景の地を寄進する。寂室はこれを受け、翌康安元年(一三六一)、七十一歳で永源寺を開いた。それでも寂室は、権勢ある寺の住持としてではなく、黒衣の一僧として暮らしたという。遺誡に記された臨終の指示は、こうした生涯の帰結でもある。四十年にわたって組織から身を退けてきた者が、最期に、自らも組織を後に残すまいとした言葉なのである。

重要文化財としての価値

紙本墨書寂室和尚遺誡は、昭和三十九年(一九六四)四月十四日に重要文化財に指定された。国宝の一段下に位置づけられる国指定の区分であり、国の歴史・文化にとって価値が高いと認められた品が対象となる。この遺誡は書跡ではなく古文書の種別で登録されている。評価の重心が、書としての姿よりも、そこに記された言葉と、その言葉が書かれた瞬間に置かれていることを示す区分である。

もっとも、寂室は当代きっての能書家として知られ、その評価はいまも変わらない。寂室の詩偈はのちに『寂室録』としてまとめられ、五山文学にも影響を与えた。現存する墨蹟や書状のいくつかは、それぞれ重要文化財に指定されており、永源寺には消息など寺の草創にかかわる寂室の筆跡が複数まとまって伝わる。遺誡は、そのなかでもとりわけ私的な一通である。読者を想定して詠まれた詩ではなく、死の枕辺に立つ人々に向けて書かれた、いわば命令の文書だからである。

永源寺を訪ねる

遺誡そのものは常時公開されていない。中世の脆い文書の例にもれず、寺の収蔵庫に納められ、特別公開の折にのみ姿を見せる。したがって永源寺を訪れることは、遺誡の紙に会いに行くというより、寂室の地に身を置きに行くことに近い。その地は、それだけで十分に足を運ぶ甲斐がある。

永源寺は、琵琶湖の東、東近江市の山中、愛知川の上流を見おろす高みに建つ。石段の参道は、岩肌に刻まれた十六羅漢の石仏のかたわらを登っていき、道の左右はモミジで埋め尽くされる。十一月下旬の紅葉は滋賀県でも屈指と評され、寺は人出に応じて拝観時間を夕刻まで延ばす。開山堂「大寂塔」には、重要文化財の塑造寂室和尚坐像が安置されている。康暦元年(一三七九)の十三回忌に造られた像で、口元に深く刻まれた皺は、類型ではなく一人の人間の顔として今も眼前に迫ってくる。

境内には、開山の名残がほかにもある。本堂の屋根は琵琶湖のヨシで葺かれ、およそ十年ごとに葺き替えられる。開山忌は毎年十月一日に営まれる。食の逸話もある。寂室が元からこんにゃく芋を持ち帰ったと言われ、地元のこんにゃくはいまも参道で売られている。永源寺は原則として毎日、朝から夕方まで拝観でき、紅葉の季節は時間が延長される。近江鉄道八日市駅から近江バスで永源寺前へ、あるいは名神高速八日市インターチェンジから車で向かうことができる。

Q&A

Q永源寺を訪ねれば、紙本墨書寂室和尚遺誡を見られますか。
A通常は見られません。十四世紀の脆い古文書であり、寺の収蔵庫に納められて、特別公開の折にのみ展示されます。遺誡そのものよりも、境内や開山堂、秋の紅葉を目当てに計画されるのがよいでしょう。
Q遺誡には何が書かれているのですか。
A佐々木氏頼から寄進された土地を返し、堂宇はこの地の長老に譲り、修行僧は散会するよう寂室が命じた文面です。弟子たちはこれに従わず、この地にとどまって師の禅を継ぎました。永源寺が今日あるのはそのためです。
Qこれは国宝ですか。
Aいいえ、重要文化財です。昭和三十九年(一九六四)の指定で、国宝の一段下、国の歴史・文化にとって価値が高いと認められた品の区分にあたります。
Q寂室元光とはどんな人物ですか。
A一二九〇年から一三六七年まで生きた臨済宗の禅僧です。元で修行し、隠遁の僧として各地を行脚し、大寺院の住持を繰り返し辞退して、晩年に永源寺を開きました。能書家・詩僧としても名を残しています。
Q永源寺を訪れるのに最適な時期はいつですか。
A紅葉なら十一月下旬で、人出も拝観時間も最も多くなります。開山に縁を求めるなら、十月一日の開山忌が静かに参拝できる機会です。

基本情報

名称紙本墨書寂室和尚遺誡(しほんぼくしょじゃくしつおしょうゆいかい)
指定区分重要文化財(昭和三十九年〔一九六四〕四月十四日指定)
種別古文書
員数一幅
時代南北朝(十四世紀)
所有者永源寺(臨済宗永源寺派大本山)
所在地滋賀県東近江市永源寺高野町
公開状況常時非公開。境内は原則毎日拝観可、紅葉期は時間延長

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9325
臨済宗永源寺派 大本山 永源寺 公式サイト「開山寂室禅師」
https://eigenji-t.jp/kaizan/
永源寺|滋賀県観光情報(公式観光サイト)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/1243/
永源寺(ウィキペディア)寺史・指定文化財
https://ja.wikipedia.org/wiki/永源寺

最終更新日: 2026.06.18