寂室元光「越谿」道号並びに説 ― 草魚泳ぐ料紙に書かれた、師から弟子への名

貞治5年(1366)の秋、近江の山中に住む老僧が、一人の弟子のために二幅の書をしたためた。一幅には大きく二文字、「越谿(えっけい)」。もう一幅にはその名の由来と心を、二十二行にわたって書き記している。筆をとったのは寂室元光(1290―1367)。永源寺を開いた禅僧であり、当代きっての墨蹟の名手として知られる。翌年の秋に世を去っているから、この双幅は元光最晩年の筆ということになる。

現在は滋賀県東近江市の退蔵寺が所蔵する重要文化財で、正式には「寂室元光墨蹟〈越谿字号并説(蝋牋)/貞治五年仲秋月〉」と呼ばれる。墨蹟とは禅僧の筆跡をいう語で、整った書というより、それを書いた人の心がそのまま紙に残ったものとして重んじられてきた。

ここに伝わるのは、詩でも手紙でもない。法を継がせるという出来事そのものを、肉筆でしるした記録である。

禅僧が「もう一つの名」を授かるということ

この双幅を読み解くには、臨済宗の名の仕組みを少し知っておくとよい。出家得度のとき、師が弟子に与える名を法号(法諱・戒名)という。ここで弟子が授かっていた法号が「秀格」である。修行が進み、一定の法階に達した僧には、その法号の上にもう一つの号が師から授けられる。これを道号と呼ぶ。道号と法号を合わせた四字が、その禅僧の正式な呼び名となる。秀格が授かった道号が「越谿」であり、こうして彼は越谿秀格となった。

二幅目は「越谿号説」と題され、その経緯をはっきりと書きとめている。秀格は若いころから元光のもとで参禅し、すでに十二年。その間、もっぱら庫務、すなわち寺の台所や蔵の地味な務めに徹しながら、終始泰然自若としていた。老師はその落ち着きをたたえ、秀格自身の求めに応じてこの名を与えると記す。

名の由来は中国にさかのぼる。「越谿」とは越州の若耶溪(じゃくやけい)のこと。晋・宋のころから名賢才子に愛された渓谷で、詩僧や文人が競って訪れた景勝の地である。その水かさが深く満ちていくように、弟子の禅の境地もまた深いところへ届いてほしい――元光はそう願いを込め、名に恥じることなく自らの正統を継ぐよう諭して、貞治5年8月、住房の含空台で書いたと末尾に明かしている。

もう一つ、静かな掛詞があるかもしれない。永源寺のかたわらを流れる愛知川(えちがわ)は、古く越智川・越渓とも書かれてきた。琵琶湖文化館の解説は、「越谿」が遠い中国の渓谷だけでなく、師弟が暮らしたこの谷の名にも重ねられているのではないか、と指摘している。

料紙そのものが、もう半分の傑作

書から目を移すと、紙そのものが見事である。二幅とも、中国から舶載された高級紙「蝋牋(ろうせん)」に書かれている。文様を彫り出した版木の上に紙を置き、蝋を塗って、猪の牙などで擦り磨く。すると隠れていた文様が浮かび上がる。それが蝋牋で、趣味のよい舶来の上等品だった。ここでは紙が浅葱色――薄い藍色――に染められ、中央には藻をはむ二匹の草魚(ソウギョ)、四周には鳳凰の縁取りが押し出されている。

仕上がりは、さながら小さな川の絵である。その爽やかな水色の上に、元光は「越谿」の二文字を骨太に、堂々と据えた。谷を意味する名の下を魚が泳ぐ。書と料紙はたがいに響き合うよう、選び抜かれている。

寸法は大きくない。道号の本紙が縦35.0×横81.8センチ、説の本紙が縦35.5×横82.0センチほど。二文字が重く建築的であるのに対し、説の二十二行は筆勢に富んだ元光ふだんの草体で流れる。同じ手が、表向きの題号と私的な書状という二つの調子を行き来する――それを並べて見られることが、この双幅の楽しみでもある。

なぜ重要文化財に指定されたのか

この双幅は平成2年(1990)6月29日に重要文化財へ指定された。際立つ点は三つある。

  • 一人の僧の道号と、その字説とが、揃って完存していること。これほど揃って残る例は少ない。
  • 没する前年に書かれた、筆勢豊かな元光円熟期の書風を伝えていること。
  • 禅の法がどのように師から弟子へ受け継がれたかを、師自身の言葉で記録していること。美術品であると同時に歴史資料でもある。

最後の一点は大きい。中世禅の嗣法について私たちが知ることの多くは、後世の記録に拠っている。ここでは、その継承がまさに行われたその瞬間が、当人の肉筆のままにとどめられている。

斬首された武将の遺児と、それを引き取った師

弟子の名の背後には、忘れがたい人間の物語がある。越谿秀格は、美濃国守護・土岐頼遠(?―1342)の遺児と伝えられる。頼遠は足利尊氏に従って各地で武功をあげた名将だったが、その最期は不名誉なものだった。酒に酔った勢いで光厳上皇の牛車を蹴倒した――矢を射たともいう――として、京都六条河原で斬首されたのである。

残された幼子を引き取ったのが寂室元光だった。侍童として常にかたわらに置き、寺の中で育てた。朝廷への狼藉によって父を処刑された子は、やがて高僧の法を嗣ぎ、永源寺第五世となり、自らの寺・退蔵寺を開く。いまこの双幅を守り伝えているのが、その退蔵寺にほかならない。こうした来歴を重ねて読むと、「越谿号説」の丁寧で励ますような筆致は、形式というより、父が子へ書き送った文のように響いてくる。

双幅の世界を訪ねる

原本は寺宝であり、常時公開されてはいない。特別展でときおり姿を見せる程度で、令和6年(2024)には東近江市の観峰館で展示された。なお滋賀県は、浜大津の湖畔に船をかたどった新しい琵琶湖文化館を建設中で、令和9年(2027)12月の開館を予定している。こうした作品の今後の公開先となるだろう。原本を目当てに出かける前には、最新の展示情報を必ず確認したい。

物語の現場に立ちたいなら、向かう先は永源寺である。寂室元光が康安元年(1361)、近江守護・佐々木(六角)氏頼の招きによって開いた寺で、この双幅を授かった秀格はのちにその第五世を務めた。臨済宗永源寺派の大本山は、愛知川の渓谷を見おろす右岸の森に建つ。「越谿」の名が重ねられたかもしれない、まさにその谷である。関西でも屈指の紅葉の名所で、11月中旬から下旬、参道のカエデが山門までの坂を赤いトンネルに変える。

永源寺へは、近江鉄道バスで八日市駅からおよそ35分、「永源寺前」下車。拝観志納料は大人500円ほど、拝観時間はおおむね9:00~16:00(紅葉期は8:00~17:00に延長)。近くには湖東三山(百済寺・金剛輪寺・西明寺)もあり、琵琶湖の東に広がる山あいの寺めぐりを一日かけて楽しめる。

Q&A

Q「墨蹟」とは何ですか。なぜこの双幅は高く評価されるのですか。
A墨蹟とは禅僧の筆跡をいい、装飾的な書というより、悟りに至った心の直接の跡として尊ばれます。この双幅は、弟子の道号とその字説とが、揃って完全な形で残っている点でとりわけ貴重とされています。
Q原本を見ることはできますか。
A常時の公開はされていません。退蔵寺の所蔵で、ふだんは保管され、特別展でときおり公開される程度です。令和9年(2027)12月開館予定の新しい琵琶湖文化館が、今後の公開先になると見込まれます。お出かけ前に展示予定をご確認ください。
Q「越谿」という名にはどんな意味がありますか。
A中国・越州の若耶溪に由来します。詩僧や文人に長く愛された渓谷で、元光はその水の深さになぞらえ、弟子の禅の境地が深まることを願いました。永源寺のそばを流れる愛知川(越渓)に掛けられているとの見方もあります。
Q弟子の越谿秀格とはどんな人物ですか。
A元光の愛弟子で、斬首された武将・土岐頼遠の遺児と伝えられます。のちに永源寺第五世となり、退蔵寺を開きました。応永20年(1413)に示寂しています。
Qこの作品にゆかりの地で、実際に訪ねられる場所はありますか。
A元光が開き、秀格が第五世を務めた東近江市の永源寺が拝観できます。双幅の世界を体感するには最適の場所で、とくに紅葉の季節がおすすめです。

基本情報

名称寂室元光墨蹟〈越谿字号并説(蝋牋)/貞治五年仲秋月〉
指定区分重要文化財(書跡・典籍)
時代・年代南北朝時代・貞治5年(1366)
指定年月日平成2年(1990)6月29日
員数2幅(双幅)
法量道号 本紙 縦35.0×横81.8cm/説 本紙 縦35.5×横82.0cm
品質・材質浅葱色に染めた中国渡来の蝋牋(草魚・鳳凰文)に墨書
所有者退蔵寺(滋賀県東近江市)
公開状況常時非公開。特別展でときおり公開

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8940
滋賀県立琵琶湖文化館 収蔵品紹介「寂室元光墨蹟」
http://www.biwakobunkakan.jp/db/db_04/db_04_026.html
臨済宗永源寺派 大本山 永源寺(公式サイト)
https://eigenji-t.jp/
新しい琵琶湖文化館(滋賀県)
https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/338231.html
寂室元光 ― ウィキペディア(日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/寂室元光

最終更新日: 2026.06.20