金と銀で彩られた平安の写経

手のひらに収まるほどの一帖の折本に、鳥や蝶、草花の下絵が金銀の泥で描かれている。法華経序品(ほけきょうじょほん)、すなわち法華経の冒頭にあたる序品を書写したもので、十一世紀の平安時代に作られた。琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)に長く所蔵されてきたことから、竹生島経(ちくぶしまきょう)の名で呼ばれる。

もとは法華経全巻がそろっていたと考えられるが、現存するのは巻第一から分かれた二品のみである。宝厳寺が所蔵するこの序品は折本仕立てで、もう一品の方便品(ほうべんぼん)は巻物の形で東京国立博物館に収められている。いずれも同じ日に国宝へ指定された。

国宝に指定された理由

国宝指定は昭和二十九年(一九五四年)三月二十日。その価値は、日本の装飾経の歴史において早い段階の姿を示す点にある。平安時代には、法華経を書写すること自体が功徳とされ、写経はさかんに行われた。経典が書写の功徳を繰り返し説くためで、やがて裕福な施主たちはその行為に贅と技巧を凝らすようになり、装飾経が生まれた。

竹生島経は、その装飾経の初期を代表する作例である。素紙(そし)に金泥で界線を引き、金銀泥で鳥や蝶、蕨(わらび)、宝相華(ほうそうげ)、霊芝雲(れいしうん)などの下絵を大らかに散らす。その上に、落ち着いた楷書で経文が記される。後の平家納経に見られる華麗さと比べると、ここにある抑制はむしろ静かな自信を感じさせる。

巻末には、後世に加えられた識語(しきご)がある。寛永四年(一六二七年)、書の名手として知られた松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)がこの帖を鑑定し、その筆を平安の公卿・源俊房(みなもとのとしふさ、一〇三五〜一一二一)のものと判じた。確証のある説ではなく伝承の域を出ないが、この書がいかに高く評価されてきたかをうかがわせる。

見どころ

間近に見ると、この帖の魅力は均衡にある。金銀の下絵は文字を圧することなく、余白や行間に軽やかに配されており、視線は装飾と経文のあいだを自然に行き来する。銀泥はいまでこそ所々が黒ずんでいるが、もとは白い地に淡く輝き、温かみのある金泥との対比は光の向きによって表情を変えたことだろう。

訪ねる前に知っておきたい点がひとつある。この帖は竹生島では公開されていない。現在は奈良国立博物館に寄託されており、特別展などの機会に限って展示される。実物を前にしたい場合は、まず同館の予定を確かめるのがよい。一方、島を訪ねれば、作品そのものではなく、それが生まれ受け継がれてきた場に立つことができる。

竹生島を訪ねる

竹生島は琵琶湖北部に浮かぶ周囲約二キロの島で、森に覆われ、住む人も車もない。琵琶湖汽船のフェリーが長浜港と今津港から島へ向かい、所要はおよそ三十分。両港を島経由で結ぶ横断航路もある。乗船料のほかに入島料が必要で、上陸できる時間はフェリーの時刻に左右されるため、島で過ごせるのはおおむね一時間半ほどとなる。

宝厳寺は西国三十三所第三十番の札所で、弁才天を本尊とする。経が展示されていなくとも、石段を上る価値は十分にある。国宝の唐門は令和二年(二〇二〇年)に修復を終えた中国風の門で、大坂城の橋の唯一の遺構とも言われる。観音堂と隣の都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)をつなぐ舟廊下は、豊臣秀吉の船の用材を用いたと言い伝えられ、神社の本殿もまた国宝に指定されている。湖に面した拝所では、かわらけと呼ばれる素焼きの小皿を鳥居へ投げる願掛けに、多くの人が挑む。

本土側の港町にも足をとめたい。長浜には黒壁スクエアの古い町並みと湖畔の城があり、今津からはマキノのメタセコイア並木へと足を延ばせる。

Q&A

Q竹生島で実物を見ることはできますか。
Aできません。この帖は奈良国立博物館に長期寄託されており、宝厳寺では公開されていません。同館でも特別展などの機会に限って展示されるため、実物を見たい場合は事前に博物館の予定を確認してください。
Qなぜ「竹生島経」と呼ばれるのですか。
A残された場所に由来します。この写経が長く竹生島の宝厳寺に受け継がれてきたことから、竹生島経という通称が付きました。
Q法華経の残りの部分はどうなったのですか。
A現存が確認されているのは巻第一からの二品のみです。宝厳寺が序品を折本の形で、東京国立博物館が方便品を巻物の形で所蔵しています。いずれも国宝です。
Q竹生島へはどう行けばよいですか。
A長浜港または今津港から琵琶湖汽船のフェリーで約三十分です。乗船料のほかに入島料がかかり、便数は季節によって変わるため、運航ダイヤを事前に確かめておくと安心です。
Q島で他に見るべきものは何ですか。
A国宝の唐門、宝厳寺の観音堂と舟廊下、そして同じく国宝の都久夫須麻神社本殿などがあります。湖に面したかわらけ投げの拝所も人気の立ち寄り先です。

基本情報

名称法華経序品〈(竹生島経)〉(ほけきょうじょほん)
指定区分国宝(昭和二十九年〔一九五四年〕三月二十日指定/指定番号 00194)
種別書跡・典籍
時代平安時代(十一世紀)
員数・形状一帖(折本仕立て)、彩箋墨書、縦約26.1センチ
所有者宝厳寺(竹生島)
所在都道府県滋賀県
現在の保管先奈良国立博物館に寄託(島内では非公開)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/709
文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/507004
e国宝(国立文化財機構)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&content_base_id=100163
竹生島 宝厳寺 公式サイト
https://www.chikubushima.jp/precincts/
琵琶湖汽船 竹生島クルーズ(アクセス・時刻表)
https://www.biwakokisen.co.jp/cruise/chikubu/

最終更新日: 2026.06.10