師の没後三十二年、法堂で語られた言葉
応永六年(1399)九月一日、永源寺の僧たちは開山をしのぶために堂に集まった。日取りには意味がある。寂室元光が世を去ったのは貞治六年(1367)の九月一日。三十三回忌にあたるこの年、人々は同じ命日に立ち返って法要を営んだ。没してちょうど三十二年後のことである。この日、法堂で語られた言葉は、その場限りで消えはしなかった。書き留められ、表装され、寺に受け継がれて、いまも三幅の古文書として残る。重要文化財に指定された「紙本墨書永源寺開山三十三回忌陞座語並ニ香語」である。
長い名称だが、ほどけば内容そのものを言い当てている。紙に墨で書かれ(紙本墨書)、高座から述べられた言葉(陞座語)と、焼香にあわせて唱えられた偈(香語)を、開山三十三回忌の記録として伝えるものだ。
「陞座」と「香語」とは何か
臨済の禅院で、正式な説法はあらためての所作を伴う。住持は法堂正面の高座に登り――これを陞座(しんぞ)という――そこから一山の僧に向かって法を説いた。その語を書きとめたものが陞座語である。追善の場では、説法は亡き師へと向けられ、その生涯と禅の境地が、残された者たちの前に掲げ直される。
香語は別の場面に属する。開山の頂相や位牌の前で香が焚かれるとき、導師が短い偈を唱える。多くは漢文で、言葉数は少なく、典故を含み、唱える者と弔われる者との結びつきがそこに凝縮される。一度の法要から、説法と香語の双方がそろって残るのは珍しい。
記されているのは私的な悲嘆ではない。亡き開山を生者のあいだに留め置くための、公的で儀礼的な言葉――禅林の式法そのものである。
寂室元光という人
寂室元光(1290〜1367)は、いまの岡山県真庭市に生まれた。早くに仏門に入り、建長寺開山・蘭渓道隆の法を継ぐ約翁徳倹のもとで研鑽を積む。三十一歳で元へ渡り、七年にわたって名だたる禅僧を訪ねた。なかでも杭州・天目山に隠棲していた中峰明本から受けた影響は深い。大寺を構えず、静かな山中で生涯修行に生きるという中峰の幻住の思想が、その後の寂室の生き方を決めた。「寂室」の号も、中峰から授けられたものである。
帰国後の三十余年、寂室は名利を避けて過ごした。天龍寺や建長寺への住山を促す勅にも応じず、小庵に身を置いて西国から東国までを行脚する。その日々に詠んだ偈や手紙はのちに『寂室録』として編まれ、簡素で澄んだ詩風は、彼を知る人びとの範囲を越えて愛された。
異なる招きに応じたのは七十一歳のときだった。近江守護・佐々木氏頼が、琵琶湖の東の山あいにある景勝の谷を寄進する。康安元年(1361)ごろ、ここに永源寺が開かれた。それでも寂室は黒衣の一僧であり続け、五山官寺の序列や格式とは距離を置いた。貞治六年(1367)、七十八歳で示寂。遺誡には、土地は返し、衆はみな山を去るべきこと、ただし人々が強く望むなら修行の道場として残してよい、と記されている。人々はそれを望んだ。
なぜ指定されたのか
三十三回忌の三幅は、孤立して伝わるのではない。永源寺には、開山の追善法要を三十余年にわたって追う一連の文書が残る。没した翌日の祭文(貞治六年九月二日)、その一週間後の初七日香語、康暦元年(1379)の十三回忌法語、応永六年(1399)のこの三十三回忌、そして開山堂への入祖堂を記した文書。順に読めば、一人の開山の記憶がいかに制度として整えられ、若い臨済の一派がそこに自らの拠りどころを見いだしていったかがたどれる。
これらは南北朝から室町にかけての一次史料であり、出来事から遠くない時点で書き留められている点に価値がある。後世の要約ではなく、十四世紀の禅院で実際に唱えられた説法と偈そのものを伝え、時代を代表する詩僧の一人に直接つながる。文化庁はこの文書を昭和十一年(1936)五月六日に重要文化財へ指定した。種別は古文書、形態は三幅である。
開山の記憶に出会う
拝観にあたって正直に断っておきたい。この種の文書を実際に目にできる機会は少ない。紙の脆い古文書であるため、ふだんは収蔵されており、特別展などの折にまれに公開されるにとどまる。通常の拝観で見られるものではない。永源寺で出会えるのは、これらの言葉が生まれた、いまも続く場のほうである。
開山堂には寂室の坐像が安置されている。これも重要文化財で、晩年の師にもとづいて造られた。目尻や口もとに刻まれた深い皺は、厳しさと優しさを同時に帯びた表情をつくる。寺はいまも開山を正式に供養しており、開山忌は十月一日に営まれる。そして、寂室に天目山を思い起こさせたと伝わるこの谷は、いまも愛知川が貫き、滋賀でも名高い紅葉に包まれて、伽藍を取り巻いている。
永源寺の周辺
永源寺は琵琶湖の東、東近江市の山あいにある。参道を歩くこと自体が楽しみの半ばだ。石畳の道は、片側に愛知川、もう片側の石崖に十六羅漢の石仏を従えて登っていく。カエデは総門の付近と含空院の前あたりで濃くなり、含空院の庭は背後の鈴鹿の山並みを借景に取り込む。
知られているのは秋である。ヤマモミジは十一月を通じて色づき、見頃はおおむね下旬にかかる。観楓の時期には拝観時間が前後に延び、夜間にライトアップが行われる日もある。新緑なら四月下旬から五月中旬。本尊は秘仏で、家の存続にまつわる信仰から「世継観音」として親しまれてきた。
時間が許せば一日かけたい。湖東三山の一つで紅葉の名高い百済寺が近く、山上の太郎坊宮もほど近い。帰りには、寺から少し離れた八風の湯で温泉に浸かるのもよい。
Q&A
- この三幅は永源寺で実際に見られますか。
- 通常は見られません。紙の古文書という性質上ふだんは収蔵されており、特別展などの折にまれに公開される程度です。永源寺を訪ねる目的は、この巻物そのものよりも、境内や開山堂、紅葉にあります。
- 寂室の没年は1367年なのに、なぜ法要は1399年なのですか。
- 日本の数え方では没した年を一回目とするため、三十三回忌は没後三十二年にあたります。1367年から数えると1399年になり、命日と同じ九月一日に営まれました。
- 陞座語と香語は何が違うのですか。
- 陞座語は、住持が法堂の高座に登って述べた正式な説法の記録です。香語は、開山の像の前で香を焚くときに唱えられた短い偈で、多くは漢文です。この三幅には、その両方が記されています。
- 開山にゆかりのもので、実際に拝観できるものはありますか。
- あります。開山堂には重要文化財の寂室坐像が安置され、寺はいまも十月一日に開山忌を営んでいます。境内全体が、この文書の属する世界の空気を伝えています。
- 永源寺を訪ねるのに最適な時期はいつですか。
- 紅葉なら十一月中旬から下旬。寺がもっとも賑わい、もっとも見ごたえのある時期です。人出を避けたいなら、新緑の四月下旬から五月中旬がよいでしょう。紅葉期は拝観時間が延びるので、朝早い時間がおすすめです。
基本情報
| 名称 | 紙本墨書永源寺開山三十三回忌陞座語並ニ香語(応永六年九月一日) |
|---|---|
| ふりがな | しほんぼくしょえいげんじかいさんさんじゅうさんかいきしょうざごならびにこうご |
| 指定区分 | 重要文化財(古文書) |
| 指定年月日 | 昭和十一年(1936)五月六日 |
| 員数 | 三幅 |
| 時代 | 南北朝〜室町 |
| 年記 | 応永六年(1399)九月一日 |
| 所有者 | 永源寺 |
| 所在地 | 滋賀県東近江市永源寺高野町41(〒527-0212) |
| 公開状況 | 収蔵保管。常設展示はなく、特別展などで稀に公開 |
| 寸法 | 国指定文化財等データベースに記載なし |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース(本文書の登録情報)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9330
- 臨済宗永源寺派 大本山 永源寺 公式サイト「開山寂室禅師」
- https://eigenji-t.jp/kaizan/
- 永源寺(ウィキペディア)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/永源寺
- 滋賀・びわ湖観光情報「永源寺」
- https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/1243/
- 滋賀県立琵琶湖文化館「塑造寂室元光像」
- http://www.biwakobunkakan.jp/monogatari/monogatari009.html
最終更新日: 2026.06.20