瀬田川のほとりに残る唐写本

滋賀県大津市、瀬田川に面した石山寺に、唐時代(618〜907年)の中国で書写された五帖の折本が残されている。これに記されているのが釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)、漢名を釈摩訶衍論という一書である。内容は、東アジア仏教に大きな影響を与えた『大乗起信論』への注釈にあたり、石山寺の本は、唐代の紙の上に記された写本として現存する数少ない例の一つに数えられる。

この注釈書は、二〜三世紀のインドの思想家で、後の大乗仏教の理論を方向づけた竜樹(ナーガールジュナ)の撰述を称している。ただし現在この説をとる研究者は少ない。九世紀の僧安然はその著『悉曇蔵』のなかで、新羅の月忠なる人物の撰になると記した。今日では、竜樹の没後数百年を経た七〜八世紀に、唐もしくは新羅で成立したと考えられている。本文は全十巻に及び、ここでは五帖の折本に仕立てられている。

国宝に指定された理由

紙は長くは保たない。唐時代の写本は、戦乱や火災、長い年月のなかで中国本土ではほとんど失われ、当時のままに残る例は乏しい。一方で、最古層の漢訳仏典の少なからぬ部分は、入唐した僧侶の手で日本へもたらされ、寺院の経蔵に納められて書写を重ねながら保存されてきた。石山寺の釈摩訶衍論も、その保存の流れのなかに位置づけられる。昭和34年(1959年)6月27日に国宝へ指定されたのは、唐写本としての古さと、記された本文の重要性の双方が評価されたためである。

この書は単なる逐語的な注解にとどまらない。『大乗起信論』が世界のあり方を、絶対的な真如門と相対的な生滅門の二つに分けるのに対し、釈摩訶衍論は独自の枠組みを立て、絶対的な不二摩訶衍と、相対的な三十二法門とに区分する。一つの根本典籍の上に独立した思想を組み上げた点は思い切ったものであり、この注釈書が時代と地域を越えて読み継がれた一因となっている。

日本では、この書は意外な擁護者を得た。九世紀初頭に真言密教の宗派を開いた空海は、不二摩訶衍の思想を密教の教えにつながるものと読み、自らの宗派が学ぶべき典籍のなかに本論を加えた。一方で竜樹撰述という伝承を疑い、偽撰であると論じた日本の学僧も少なくなかった。学ばれ、疑われ、また擁護されながら、本論は東アジア仏教の思想史のなかに確かな位置を占めていった。

注目したい点

これは書かれた文字資料であって、仏像や堂宇のように造形を眺める対象ではない。目を引くのは、唐代の筆致による整然とした字配り、千年を超えて柔らかく擦れた紙、そして中国本土から渡り、幾世代もの僧の手で守られてきた一書としての存在感である。見ているのは後世の転写ではなく、唐の時代の手が実際に筆を入れた紙面そのものにあたる。

もっとも、傷みやすい写本の常として、釈摩訶衍論が常時公開されているわけではない。石山寺は書跡類を収蔵庫に納め、境内の高所に建つ宝物館「豊浄殿」で春と秋に催される特別展のおりに、その一部を出陳している。本論がその季に並ぶかどうかは展示のテーマによるため、実見を望む場合は来訪前に最新の予定を確かめておきたい。

石山寺とその周辺

石山寺そのものが、半日以上をかけて巡る価値のある寺である。天平19年(747年)、聖武天皇の勅願により良弁僧正が開いたと伝えられ、寺名の由来となった硅灰石(けいかいせき)と呼ばれる淡色の結晶質の巨岩が境内に露出し、これ自体が天然記念物に指定されている。建造物のうち二棟が国宝で、三十三年に一度だけ開扉される秘仏の如意輪観音を安置する本堂と、建久5年(1194年)の多宝塔がそれにあたる。多宝塔は同形式のものとしては日本最古とされ、源頼朝の寄進と伝えられている。

この寺は日本文学のうえでも特別な場所にある。『源氏物語』の作者紫式部は、ここでの参籠の折に物語の着想を得たといわれ、本堂の一室がその場所として案内されている。豊浄殿の春秋の展示も、この縁にちなんで構成されることが多い。

交通の便もよい。JR石山駅から江若バスでバス停「石山寺山門前」まで約10分、京阪石山坂本線の石山寺駅からは徒歩約10分で着く。京都駅からは電車でおよそ30分の距離にある。近くには、瀬田川に架かり、古来詩歌や絵画に取り上げられてきた瀬田の唐橋があり、琵琶湖南端の水辺を歩く一日に加えるのにちょうどよい。

Q&A

Q釈摩訶衍論とはどのような書物ですか。
A大乗仏教の根本論書『大乗起信論』への注釈書です。原典を解説するだけでなく独自の枠組みを立て、絶対的な不二摩訶衍と相対的な三十二法門という構成で教えを整理しています。
Q本当に竜樹が著したのですか。
Aその可能性は低いとされます。漢訳本は著者を竜樹としますが、多くの研究者はこれを後世の不正確な付託とみています。九世紀の日本の文献は新羅の月忠の名を挙げており、成立は七〜八世紀の唐または新羅と考えられています。
Q訪問すれば写本を実際に見られますか。
A常時は見られません。傷みやすい書跡のため収蔵庫に保管され、宝物館「豊浄殿」で春と秋に開かれる特別展のおりに限って出陳されます。展示の有無は事前に公式の予定でご確認ください。
Q中国の典籍がなぜ日本の国宝なのですか。
A指定は成立地ではなく、日本にとっての重要性を反映するためです。唐代の写本は中国本土ではほとんど残らず、その多くが日本の寺院に保存されてきました。本品は唐代の現物として希少であること、ならびに記された本文の価値の双方から評価されています。
Q石山寺へのアクセスを教えてください。
AJR石山駅から江若バスで「石山寺山門前」まで約10分、または京阪石山坂本線の石山寺駅から徒歩約10分です。京都駅からは約30分で、拝観は8時から16時30分まで(入山は16時まで)です。

基本情報

名称釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)
指定区分国宝(書跡・典籍)
指定年月日昭和34年(1959年)6月27日
員数5帖(折本)
成立中国・唐(618〜907年)
所有者石山寺(滋賀県大津市)
公開常設公開なし。宝物館「豊浄殿」の春・秋の特別展で随時出陳
拝観時間8時〜16時30分(入山は16時まで)/入山料600円

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース:釈摩訶衍論
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/753
文化遺産オンライン:釈摩訶衍論
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/449080
大本山 石山寺 公式ホームページ
https://www.ishiyamadera.or.jp/
大本山 石山寺 公式ホームページ:寺宝・文化財
https://www.ishiyamadera.or.jp/about/treasure
滋賀県観光情報 公式観光サイト:石山寺
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/94/

最終更新日: 2026.06.08