表と裏に異なる文字をもつ一巻

国宝に指定された古い書物の多くは、一つの本文だけを今に残す。だが滋賀県大津市の石山寺に伝わる「春秋経伝集解巻第廿九残巻」は、表と裏とで別々の文字を載せている。表に書かれているのは、中国で生まれた儒教経典の注釈であり、これを平安時代の日本人が書き写した。紙を裏返すと、まったく違う世界が現れる。密教の儀軌、すなわち修法の次第が、後の時代に僧侶の手で記されているのである。

この再利用こそが、本文が今日まで残った理由にほかならない。

春秋経伝集解とは何か

『春秋』は儒教の五経の一つで、魯国の出来事を簡潔に記した年代記であり、孔子の手が加わったとされる。記述があまりに簡素であるため、後世はこれに膨大な注釈を重ねた。なかでも影響が大きかったのが、三国から西晋にかけて活躍した武将であり学者でもあった杜預(222〜285)の仕事である。杜預は『春秋』の本文に『春秋左氏伝』を組み合わせ、さらに自らの注解を加えた。こうしてできた『春秋経伝集解』は、唐代に春秋学を学ぶための標準的な書物となった。

この書は早くから日本に渡来した。奈良時代以降、宮廷や大学寮で読まれ、経書を教える博士家の学問もこの書を軸に組み立てられていった。石山寺の一巻は、その巻第廿九を平安時代に日本で書写したもので、現在は途中までを残す残巻として伝わっている。

四件のうちの三件として

『春秋経伝集解』で国宝に指定されているものは四件ある。このうち中国で書写されたのは一件のみで、残る三件は日本で写されたものであり、石山寺の巻第廿九もその一つに数えられる。この区別は軽くない。中国では早い時代の完本が早くに失われたため、日本に残る写本が、本来は伝わらなかったはずの本文や書式を今に保っている。あわせてこれらの写本は、日本の学者が漢文をどう読み解いたかを、文字の傍らに加えられた訓点や注記を通じて記録してもいる。

石山寺本は昭和28年(1953)11月14日、指定番号00179として国宝に指定された。種別は書跡・典籍、員数は一巻である。

紙背の金剛界儀軌

国指定文化財等データベースは、この巻の紙背に真言の儀軌が記されると記録する。寺の目録ではこれをより具体的に金剛界の儀軌としており、金剛界は密教の修行を組み立てる二大体系の一方にあたる。経緯は想像に難くない。原本としての役目を終えたか、あるいは傷んだ春秋経伝集解の写本が、石山寺の僧侶の手に渡った。紙は貴重であった。白紙のまま残る裏面は格好の書写面となり、ある僧がそこに自らの学ぶ修法の次第を書きつけたのである。

石山寺は、こうした再利用が起こるにふさわしい場であった。平安時代に石山寺は華厳から真言密教の道場へと性格を変え、僧侶たちは膨大な量の聖教を書写していた。寺は今も数千の単位で文献を所蔵している。四千巻を超える経典群「石山寺一切経」、そして密教の修法作法を記した二千点近い「校倉聖教」がそれである。こうした実用の文献群を背景に置けば、儒教の写本を裏返して金剛界の儀軌を記した一巻は、奇異な品というより、寺の営みをのぞく小さな窓と見るほうが正しい。

石山寺を訪ねる

訪問前に一つ断っておきたい。この巻そのものを目にできる機会は、まずないと考えてよい。国宝の典籍は傷みやすく、ふだんは収蔵庫に納められ、特別な展観の折にのみ姿を見せる。代わりに見られるのは、これを生み、守り続けてきた寺そのものである。

石山寺は瀬田川を見下ろす大津の地にあり、京都から短い乗車で着く。西国三十三所観音霊場の第十三番札所であり、寺伝では紫式部が『源氏物語』の筆を起こした場所とされる。寺名の「石山」は、本堂が載る硅灰石の大きな露頭に由来し、この岩そのものが天然記念物に指定されている。境内の宝物館「豊浄殿」は、紫式部と源氏物語を主題とする春と秋の展示の期間に開き、所蔵の写本や絵画が公開される。

春は梅と桜を、晩秋には色づく楓を目当てに訪れるとよい。秋にはもみじのライトアップで夜まで境内が開く。一巻を生んだ学問そのものは参拝者の目には見えないが、それを惜しんで残した環境は、四方に広がっている。

Q&A

Q参拝すれば実物を見られますか。
Aめったに見られません。傷みやすい国宝の典籍のため、ふだんは収蔵庫に納められ、特別な展観の折にのみ公開されます。宝物館「豊浄殿」は春と秋に開きますが、展示の中心は紫式部と源氏物語に関わる品です。
Qこの巻には何が書かれているのですか。
A表には、杜預が編んだ『春秋経伝集解』の巻第廿九を日本で書写した本文があります。裏には、のちに寺の僧侶が記した金剛界の密教儀軌があります。
Q儒教の書物がなぜ仏教寺院に伝わるのですか。
Aこの巻が再利用されたためです。石山寺の僧が、古い儒教写本の白紙の裏面に修法の次第を書き、寺がそれを膨大な経典・聖教とともに守り伝えてきました。
Q石山寺へのアクセスを教えてください。
A最寄りは京阪石山坂本線の石山寺駅で、山門まで徒歩約10分です。京都からはJRで石山駅へ向かい、京阪線に乗り換えます。門前には有料駐車場もあります。
Q訪れるのに良い時期はいつですか。
A3月下旬からの梅と桜、11月の紅葉が見どころで、いずれも豊浄殿の展示期間と重なります。境内は午前8時に開門し、午後4時30分に閉門します(最終入山は午後4時)。

基本情報

名称春秋経伝集解巻第廿九残巻
指定区分国宝(書跡・典籍)/指定番号 00179
国宝指定年月日昭和28年(1953)11月14日
員数一巻(残巻)
時代平安時代(表の本文)。紙背の儀軌は後年の書写
紙背金剛界の密教儀軌
所有者石山寺
所在地滋賀県大津市石山寺1-1-1
公開状況通常は非公開。境内は午前8時〜午後4時30分(最終入山午後4時)
拝観料入山料 大人600円。豊浄殿は別途300円、春季・秋季のみ開館

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/698
大本山石山寺 公式サイト 寺宝・文化財
https://www.ishiyamadera.or.jp/about/treasure
大本山石山寺 公式サイト 学問の寺
https://www.ishiyamadera.or.jp/about/learning
大本山石山寺 公式サイト 参拝料金・時間
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/fee
WANDER 国宝 春秋経伝集解
https://wanderkokuho.com/201-00630/

最終更新日: 2026.06.09