平安時代に書き写された中国古典の一巻

滋賀県大津市、瀬田川の西岸にそびえる岩山に建つ石山寺には、古くから多くの典籍が受け継がれてきた。そのなかの一つが、ここで取り上げる「春秋経伝集解巻第廿六残巻」である。一巻からなる紙の巻物で、中国の古典『春秋経伝集解』のうち第二十六巻にあたる部分を、平安時代の日本で書写したものである。完全な形では残っておらず、断片であるために名称の末尾に「残巻」と付く。

もとになった書物は、儒教の経典の一つにさかのぼる。『春秋』は古代中国・魯の国の出来事を年ごとに記した年代記で、古くから孔子の手が加わったといわれてきた。その簡潔な記述に詳しい説明を添えたのが『春秋左氏伝』であり、三世紀の西晋の学者・杜預(222〜285)が、経文と注釈とを一つに編みあわせ、さらに自身の注を加えてまとめたものが『春秋経伝集解』である。唐の時代には春秋学の規範となる書物として扱われ、日本でも奈良時代以降、広く読まれてきた。

この巻物には、ふつうの写本にはない特徴がある。紙の裏面に、別の文章が記されているのである。仏教の戒律を記した「四分戒本」、すなわち四分律にもとづく戒の要文がそれにあたる。紙が貴重であった時代には、一度使った紙の裏を再び用いることが少なくなかった。そのため、一枚の紙面に二種の文献が併存している。

国宝に指定された理由

この写本が国宝に指定されたのは、昭和二十八年(1953年)十一月十四日のことである。評価の根拠は、書物の伝来という観点にある。印刷が広まる以前に書き写された写本には、のちの版本では改められたり失われたりした古い本文が残ることがある。杜預の著作を平安時代に写したこの一巻は、後世に流布した版本よりもはるかに古く、当時の日本で経書がどのように読まれ、理解されていたかをうかがわせる資料となる。

古写本には、本文のほかに書き込みが添えられることが多い。漢文を日本語の語順で読み下すための訓点がそれで、宮廷の大学寮で経書を講じた博士家が、どのように本文を解釈していたかを示している。注記を伴う写本の一つひとつが、特定の学統の理解を記録したものといえる。

裏面の戒律の文章も、もう一つの価値を加えている。それ自体が古い仏教写本であり、二つの文献が一枚の紙を共有しているという事実は、寺院のなかで紙がどのように扱われたかを研究者に示す。石山寺は、このような古い典籍を数多く所蔵することで知られ、『史記』の残巻や字書『玉篇』の写本など、著名な国宝がいくつも含まれている。戦火を免れたことが、こうした稀有な集積を今日まで守ることにつながった。

巻物と、それを守る寺

訪れる人のために率直に記しておきたい。この巻物は常設で公開されているわけではなく、典籍のたぐいが展示される機会はきわめて少ない。石山寺の宝物館「豊浄殿」は、春と秋の二期に開館し、紫式部と『源氏物語』を主題とした展示が中心となる。展示品は入れ替わるため、この一巻に出会える確率は高くない。実物の拝観は、決まった見どころというより幸運な機会と考え、訪問の前にその時の展示内容を確かめておくとよい。

とはいえ、足を運ぶ意味は十分にある。多くの人の目当ては寺そのものであり、境内はゆっくり歩くだけの価値がある。石山寺という名は、本堂の近くで斜面から突き出す巨大な硅灰石に由来する。本堂はその岩の上に張り出すように木組みの床を架けた懸造りで、京都の清水寺にも見られる構法である。縁からは琵琶湖と瀬田川へと下る眺めが広がる。

文学との結びつきも深い。十一世紀の初め、紫式部がこの寺に籠もって『源氏物語』を書きはじめたと古くからいわれる。湖面に映る秋の月を眺めて構想を得たという。その逸話の真偽はともかく、千年にわたって読み手や書き手をこの地に引き寄せてきた。古い書物を守り続けてきた寺の性格と、その伝承はよく重なりあう。

石山寺の周辺

寺は大津市の南、琵琶湖が瀬田川へと狭まるあたりに位置し、JR石山駅からバスでおよそ十分の距離にある。京阪電車の駅はさらに近く、門までは歩いてすぐである。境内は広く斜面に開けており、石段や上り坂が多い。歩きやすい靴を勧めたい。所要時間はおおむね一時間から二時間ほどである。

周辺一帯も合わせて巡りたい。琵琶湖の岸辺、大津の古い町並み、湖の南端に集まる社寺はいずれも近く、西へ電車で少し行けば京都に出られる。春には梅と桜が斜面を彩り、秋には紅葉の名所としても知られる。

Q&A

Q訪問すれば実物を見られますか。
Aふだんは見られません。このような典籍は、豊浄殿の春と秋の展示で限られた機会に公開されるのみで、展示品も入れ替わります。訪問の前に、その時の展示内容を確認してください。
Q『春秋経伝集解』とはどのような書物ですか。
A儒教の経典『春秋』に、『春秋左氏伝』と三世紀の学者・杜預の注を合わせて編んだ標準的な注釈書です。『春秋』は古代中国の一国の出来事を年ごとに記した年代記です。
Q「残巻」とはどういう意味ですか。
A第二十六巻の一部分のみが残っているという意味です。もとは長い巻物であったものの、その断片であることを示しています。
Q巻物の裏面には何が書かれていますか。
A仏教の戒律の要文「四分戒本」が記されています。紙が貴重な時代に裏面を再利用したもので、一つの巻物に二種の文献が併存しています。
Q石山寺へはどう行きますか。
AJR琵琶湖線の石山駅から江若バスでおよそ十分、「石山寺山門前」で下車します。京阪石山坂本線の石山寺駅からは徒歩約十分です。

基本情報

名称春秋経伝集解巻第廿六残巻(しゅんじゅうきょうでんしっかいまきだいにじゅうろくざんかん)
所在地滋賀県大津市 石山寺
指定区分国宝(書跡・典籍)
指定年月日昭和28年(1953年)11月14日
時代平安時代
員数1巻
所有者石山寺
備考紙背に四分戒本(四分律の戒の要文)を記す
公開状況常設展示なし。豊浄殿の春・秋の展示で稀に公開
拝観8:00〜16:30(入山は16:00まで)/入山料600円

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁):春秋経伝集解巻第廿六残巻
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/697
大本山 石山寺 公式ホームページ
https://www.ishiyamadera.or.jp/
石山寺 参拝料金・時間
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/fee
滋賀県観光情報(びわ湖大津):石山寺
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/94/

最終更新日: 2026.06.09