音を失った鋳銅の杖

滋賀県湖南市、阿星山の西麓に建つ天台の古刹常楽寺に、一柄の小さな鋳銅製の錫杖が伝来している。かつては地を打つたびに金属の輪が鳴り、修行僧の到来を告げた道具である。明治44年(1911年)に重要文化財に指定された、平安期の工芸品である。

国指定文化財等データベースは、これを単に平安時代の作と記す。一方、その形姿や鋳造の技法を検討した研究では、おおむね平安後期、十一世紀から十二世紀ごろの制作と見るのが通例となっている。後の時代の錫杖から失われていく特徴を、この一柄がなお備えているためである。

現存するのは杖の頭部にあたる錫杖頭である。輪部は長木瓜と呼ばれる細長い輪郭に造られ、外縁には飛雲と宝塔をあしらう。輪の内側には雲形の文様が左右に反転して配される。柄頭には雲形の座を設け、その上に宝塔を据え、頂には小形の水瓶を載せる。左右に下がっていたはずの遊鐶、すなわち振れば鳴る輪は、いずれも失われている。

道具がなぜ文化財となったのか

錫杖はその音に由来する名を持つ。地を突けば金属の輪が乾いた音を立て、森のなかにも里の道にも響く。山野を巡行する僧は、その響きで前途の蛇や毒虫を払った。家々の戸口に立つ托鉢のおりには、声を上げる代わりにこれを鳴らして来意を告げた。老いた僧、病める僧は杖として身を支えた。一つの器に三つの用、いずれも実用に即している。

現存する錫杖の多くは装飾の少ない簡素なものである。常楽寺の一柄は異なる。実用の杖に宝塔と水瓶を据え、輪の内外を雲と塔の意匠で満たしたその造形は、もはや道具というより礼拝の対象に近い。こうした趣向が許された時期は限られている。平安後期を境に、仏像や宝塔を荘厳した錫杖は姿を消していく。常楽寺の錫杖が平安後期の作と見なされ、同時代の遺品のなかでも優れた一例に数えられる根拠の一つが、ここにある。

近代に入り、明治政府が保護すべき美術工芸品の選定を始めた早い段階で、この錫杖は重要文化財に列せられた。指定は明治44年4月17日、指定番号は00166。国が守るべき文化財として登録された、最も早い世代に属する一品である。

開祖良弁の杖という伝承

寺にはより長い物語が残る。寺伝によれば、この錫杖は奈良時代の僧良弁が所用したものという。良弁は元明天皇の勅願を受けて常楽寺を開いたと伝わる、八世紀の人物である。ただしこの結びつきは慎重に受け止めたい。鋳造の年代と見られる平安後期からさかのぼること、およそ三世紀。良弁所用という伝えは、史実の記録というより、寺がみずからの来歴に寄せる敬意の表れと理解するのが穏当だろう。むしろこの伝承が保つのは、いま寺号を担うどの宝物よりも古い、古刹としての常楽寺の自意識である。

錫杖そのものを目当てに訪れる人へ、実際的な注意を一つ。この一柄は収蔵されている寺宝であって、常時公開されているわけではない。常楽寺で確実に拝観できるのは、二棟の国宝、すなわち本堂と三重塔、そして堂内に安置される諸仏である。錫杖の実見を望むなら、公開の有無を事前に寺へ問い合わせておきたい。

常楽寺と湖南三山

常楽寺は、琵琶湖南部の丘陵に点在する天台三ヶ寺、湖南三山の西方に位置する。長寿寺、善水寺と並ぶ三山のうち、西に建つことから古来「西寺」と呼ばれてきた。両寺はいずれも車でほど近く、三山をひと巡りする参拝者も少なくない。地元では三寺の名を「善い水を飲み、常に楽しく、長生きする」と言い慣わし、順序を覚えるという。

本堂は延文5年(1360年)に火災ののち再建され、三重塔は応永7年(1400年)ごろに建てられた。錫杖が鋳造されてのちの数世紀に立ち上がった建築であり、ともに木と瓦と檜皮による国宝である。両堂の背後には丘をめぐる散策路が通り、十一月の後半には斜面の楓が一斉に色づく。常楽寺が事前予約を求めず門を開くのは、この紅葉の時期に限られる。

かつての伽藍の一部は、寺地を離れて今に残る。中世にこの地に建っていた仁王門は、のちに伏見城へ、さらに同じ湖畔の三井寺へと移され、現在は三井寺の大門としてその役を果たしている。

Q&A

Q訪問すれば錫杖を見られますか。
A必ずしも拝観できるとは限りません。錫杖は常時展示される品ではなく収蔵される寺宝のため、公開は保証されていません。確実に拝観できるのは国宝の本堂と三重塔、および堂内の諸仏です。錫杖が目的であれば、公開の有無を事前に寺へお問い合わせください。
Q拝観に予約は必要ですか。
A年間の多くは事前予約が必要です。常楽寺は電話での予約を求めており、予約のない日は閉門しています。例外は十一月後半の紅葉特別公開で、この期間は予約なしで拝観できます。
Q公共交通機関での行き方を教えてください。
AJR草津線の石部駅で下車し、湖南市コミュニティバス石部循環線で「西寺」停留所へ。そこから徒歩三、四分です。石部駅からタクシーを使えば八分から十分ほどです。
Q近くに見るべき場所はありますか。
A湖南三山の残る二寺、長寿寺と善水寺がいずれも車で近く、それぞれ国宝の本堂を有します。三寺を合わせて巡れば、滋賀南部の丘陵をめぐる充実した一日になります。
Q訪れるのに最も良い時期はいつですか。
A楓が見頃を迎え、予約なしで拝観できる十一月後半が一案です。建築と諸仏はどの季節も見応えがありますが、秋は入りやすさと風景の良さが重なります。

基本情報

名称錫杖(しゃくじょう)
所有・所在常楽寺 滋賀県湖南市西寺6-5-1
指定区分重要文化財(工芸品) 明治44年(1911年)4月17日指定 指定番号00166
時代平安時代(形姿・技法から平安後期と見られる)
員数1柄
品質鋳銅製
公開状況収蔵される寺宝であり常時公開ではない。拝観希望は事前に問い合わせること。寺は原則事前予約制で、十一月後半の紅葉期は予約不要で拝観できる。拝観料が必要(大人600円程度、最新の料金は要確認)。境内はバリアフリーではなく石段がある。
アクセスJR草津線石部駅から湖南市コミュニティバス石部循環線で西寺停留所下車。または名神高速道路栗東湖南インターチェンジから車で約15分。参拝者用の無料駐車場あり。

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁) 錫杖・常楽寺
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/5284
レファレンス協同データベース(国立国会図書館) 常楽寺錫杖の概要
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000102859
常楽寺 公式サイト(湖南三山)
https://www.eonet.ne.jp/~jo-rakuji/
滋賀県観光情報 常楽寺(西寺・湖南三山)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/462/
ぶらりこなん 湖南市観光ガイド(常楽寺)
https://www.burari-konan.jp/kanko/shaji/jyourakuji/

最終更新日: 2026.06.18