十誦律 巻第五十二 ― 神護景雲二年、写経生の手による一巻
神護景雲二年(七六八)五月十三日。この日付を奥に記した一巻の経が、滋賀・石山寺に伝わる。説一切有部の戒律をまとめた『十誦律』の巻第五十二である。全六十一巻におよぶ大部の、ちょうど後半にあたる一巻が、千二百年あまりを経て今に残った。
広げて文字を追っても、悟りを説く教えや釈迦の物語は出てこない。記されているのは規則である。僧が何をいつ食べてよいか、衣をどう着るか、共同体に新たな僧をどう迎え、争いをどう収めるか。これは仏教の「法」であり、時の女帝の命によって書き写された。
『十誦律』とは何か
「十誦律」の名は、内容が十の「誦」に分けて構成されることに由来する。律とは、僧尼の暮らしを律する戒律の文献を指す。経が教えを伝え、論が教義を論じるのに対し、律は出家者が集団として崩れずに暮らすための定めを説く。
この律は、古代インド仏教の説一切有部に属する。漢訳されたのは五世紀初め、四〇四年から四〇九年にかけてのことで、罽賓出身の弗若多羅が訳し始め、名高い鳩摩羅什が引き継ぎ、卑摩羅叉が完成させた。全六十一巻にのぼる。石山寺の一巻は、そのうちの第五十二にあたる。
定められた条項は細かい。比丘(成人の男僧)が守るべき戒は二百五十七、比丘尼(尼僧)は三百五十五に及び、受戒や夏安居の作法、財や争いの扱いまでこと細かに規定する。現代の目には組織の会則のようにも映るが、仏教を国家の柱に据えた奈良の朝廷にとって、律をふくむ一切経をまるごと書写することは、聖なる全体を欠けなく備え、功徳を積む行いであった。
女帝と乱、そして亡き人のための一切経
この書写を命じた人物は、すでに一度、帝位に在った。はじめ孝謙天皇として即位し、淳仁天皇に位を譲ったのち、政変を経て返り咲く。天平宝字八年(七六四)、権勢をふるった藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こして敗死し、仲麻呂と縁の深かった淳仁天皇は廃されて淡路に流され、翌年その地で没した。退位していた女帝はふたたび位に就き、称徳天皇として政を執る。
神護景雲元年(七六七)、その朝廷は一切経の書写に着手した。数千巻にのぼるこの一具は、奥書の年号から「神護景雲経」と呼ばれ、あるいは称徳天皇御願経として知られる。石山寺の『十誦律』は、その一巻である。
では、誰の菩提を弔うためだったのか。願文は「先聖」のためと記すが、それが誰を指すかは定まっていない。淡路に没した淳仁天皇とみる説があり、父・聖武天皇とみる説もある。一巻はその問いに答えない。
本文には小さな仕掛けも潜む。日付を記すにあたり、本来用いるべき「丙」の字を避けて「景」と書いている。唐では高祖の父の諱にあたる字を忌んだため、その慣わしに日本の写経もならったのである。奈良の文化が大陸の宮廷作法をいかに細部まで写し取っていたかが、ここに垣間見える。
この御願経の諸巻には、共通する装いがある。料紙は麻紙で、黄檗(きはだ)の樹皮から採った黄に染められている。高貴な色として珍重され、虫を寄せつけぬ効能もそなえた色である。筆致は大ぶりで力強く、聖武天皇に伝わる「大聖武」の書風の影響を受ける。薬師寺に伝わる一具とともに、奈良時代後期の写経を代表する優品とされる。石山寺の『十誦律』は昭和二十八年(一九五三)に重要文化財に指定された。
実物を見られるか、何を見るか
はじめに現実的なことを。千二百年を経た紙の巻物が、日の光のもとに常時広げられていることはない。『十誦律』は保存の対象であって、常設の展示物ではない。石山寺は春と秋の展示で豊浄殿に寺宝を公開するので、古写経を目にしたい人は、訪れる前にその時々の展示内容を確かめておきたい。
そもそも、なぜこの一巻が石山寺に伝わったのか。石山寺は、多くの古寺を焼いた戦火を全山にわたって免れた。おかげで、おびただしい典籍・仏像・文書をいまに残している。四千帖を超える一切経もそのひとつで、岩肌に束を立てた高床の経蔵に納められてきた。
その岩こそ、この寺を語るうえで欠かせない。石山寺は硅灰石の巨大な露岩の上に建つ。石灰岩が花崗岩と接して変成した珍しい石で、これほどの規模の露出はまれであり、国の天然記念物に指定されている。寺の名「石山」は、この岩に由来する。
国宝の建造物は二棟ある。永長元年(一〇九六)に再建された本堂は滋賀県下で最も古い建築で、京都の清水寺と同じ懸造(かけづくり)で斜面にせり出す。その東端の一室が、寛弘のころ参籠した紫式部が『源氏物語』の筆を起こしたと伝わる「源氏の間」である。岩の上方にそびえる多宝塔は建久五年(一一九四)の建立で、建立年の明らかな多宝塔としては日本最古。内には快慶作の大日如来坐像を安置する。
石山寺の周辺
寺が建つのは大津市、琵琶湖が瀬田川へと細まるあたりである。東の尾根の月見亭からは川面が広く見渡せ、ここから望む秋の月は古来「近江八景 石山の秋月」として親しまれてきた。境内は四季の花で彩られ、春の梅と桜、夏の花菖蒲、秋の紅葉と移ろう。花の寺と呼ばれるゆえんである。
道のりはわかりやすい。京阪石山坂本線の石山寺駅からは川沿いを歩いて十分ほど。JR石山駅からはバスで山門前に着く。車なら名神高速道路の瀬田西・瀬田東インターチェンジからおよそ十分。京都からも近く、古都の一日と組み合わせて訪ねられる。
Q&A
- 訪れたら実物の『十誦律』を見られますか。
- 通常は見られません。奈良時代の脆い写本で、常設展示ではなく保存の対象とされています。古写経を目にしたい場合は、豊浄殿の春・秋の展示が機会になりますので、訪問前にその時々の展示内容をご確認ください。
- 光明皇后の「五月一日経」とはどう違うのですか。
- 五月一日経は天平十二年(七四〇)、光明皇后が亡き両親のために書写させたものです。本巻はそれより後の神護景雲二年(七六八)、称徳天皇の御願による別の一切経の一巻です。いずれも奈良時代写経の代表ですが、発願者も時期も異なります。
- なぜ女帝が僧の戒律書まで書写させたのですか。
- 特定の経だけを選んだのではなく、一切経すなわち仏教の典籍をまるごと写すことが目的でした。完全な一切経には、経や論とならんで戒律を説く律も欠かせません。全体を写すこと自体が、亡き人のために功徳を積む行いだったのです。
- 経が公開されていなくても、訪ねる価値はありますか。
- あります。本堂と多宝塔はいずれも国宝、足もとの硅灰石は迫力のある天然記念物で、紫式部と『源氏物語』ゆかりの地でもあります。古写経を伝える寺の歴史そのものを、現地で感じることができます。
- いつ訪ねるのがよいですか。
- 春と秋がこの寺らしい季節です。梅・桜や紅葉が見頃を迎え、寺宝の展示もこの時期に開かれることが多いためです。川沿いの境内はどの季節も気持ちのよい場所です。
基本情報
| 名称 | 十誦律〈巻第五十二〉(説一切有部の戒律) |
|---|---|
| 員数 | 一巻 |
| 種別 | 書跡・典籍 |
| 時代・年代 | 奈良時代・神護景雲二年(七六八) |
| 指定 | 重要文化財(昭和二十八年〈一九五三〉十一月十四日指定) |
| 所有者 | 石山寺 |
| 所在地 | 滋賀県大津市 |
| 公開状況 | 常設公開はなし。寺宝は豊浄殿の季節展示で公開される |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)十誦律〈巻第五十二〉
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/8247
- 文化遺産オンライン 十誦律第四誦巻第二十五(称徳天皇御願経)
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574366
- 大本山石山寺 公式ホームページ 境内のご案内
- https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/precincts
- 慶應義塾 Keio Object Hub 称徳天皇勅願一切経(神護景雲経)解説
- https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/10
最終更新日: 2026.06.20