紙本墨書行歴抄〈円珍記〉ー円珍の入唐求法を記す石山寺の一巻
仁寿3年(853年)、一人の僧が新羅商人の船に乗って日本を離れた。航海の途中で暴風に遭い、目指した地よりはるか南、福州の沿岸にたどり着く。この僧、円珍がその後の五年を費やして唐の各地を歩いた記録が、大津市の石山寺に一巻の巻子本として残る。紙本墨書の「行歴抄」である。
本堂や多宝塔の威容に比べれば、この巻物は地味で、見過ごされやすい。しかしそこには、九世紀の中国を実際に旅した日本僧の証言が刻まれている。道を歩き、僧と論じ、千巻を超える経典を携えて帰った者の手控えである。
何が記されているか
正式な名称は「紙本墨書行歴抄〈円珍記〉」という。紙に墨で書かれた、円珍の旅程の抄録、という意味がそのまま名に表れている。本文は、円珍が帰国後にまとめた旅日録の抄出本にあたる。原型となった日録は「在唐巡礼記」あるいは「行歴記」とも呼ばれるが、完本の形では現存しないと考えられており、その内容は主としてこの抄録を通じて知られる。
拝観を考える人にとって、確認しておきたい点が一つある。石山寺のこの一巻は、円珍自筆の原本ではない。円珍の没後、数百年を経た鎌倉時代に、先行する写本をもとに書写されたものである。経典や典籍を写しによって守り伝えることは、当時の寺院文庫の日常であった。石山寺の経蔵は、中世の長い時間を通じてこの一巻を保管してきた。
記述の内容は、実務的な意味での旅の記録である。どこに上陸し、どの寺に迎えられ、誰に師事し、どこで道が険しくなったか。天台教学の本拠である天台山国清寺での日々、唐の都長安での滞在が綴られる。とりわけ目を引くのは、同行した日本僧円載との不和をめぐる記述である。両者の確執が比較的詳しく書き込まれており、無味乾燥な行程表ではなく、書き手の感情が透ける手記としての一面を持つ。
記録の主、円珍
円珍は弘仁5年(814年)に生まれ、寛平3年(891年)に没した。諡号は智証大師。讃岐国、現在の香川県の出身で、母は空海の姪であったと伝わる。比叡山に登って義真に師事し、長い籠山修行を経たのちに入唐を志した。
その渡海は波乱に満ちている。福州に流れ着いたのち天台山に至り、物外のもとで天台の教観を学んだ。大中9年(855年)には長安に入る。当時の長安は世界有数の大都市であり、円珍は青龍寺で法全から密教の灌頂を受け、五部心観を授けられた。天安2年(858年)、唐商の船で帰途につき、四百四十一部、千巻に及ぶ経典類を将来したと伝わる。
帰国後、円珍は園城寺、すなわち三井寺を自らの法系の拠点として整え、のちに第五代の天台座主となった。その没後、先に入唐した円仁の門流と円珍の門流はしだいに対立し、天台宗は比叡山延暦寺を本拠とする山門派と、園城寺を本拠とする寺門派に分かれていく。寺門派は今も円珍を祖と仰ぐ。
指定の理由と価値
本品は明治36年(1903年)4月15日、重要文化財に指定された。近代日本における国の指定としてはごく早い時期にあたる。その価値は外観よりも、運ぶ内容にある。円珍の入唐求法を記した証言として、日唐間の宗教的往来を一次に近い形でとどめた、数少ない文献群の一つに数えられるからである。
こうした記録は、ふつう三つを並べて読まれる。最も詳しい円仁の「入唐求法巡礼行記」が先行し、円珍の「行歴抄」が続く。さらに一世紀のちには、僧成尋が「参天台五台山記」を残した。三者を順に読めば、九世紀から十一世紀にかけて日本仏教がいかに繰り返し中国の源流へ立ち返ろうとしたかが見えてくる。なかでも円珍の記録は率直で、競争相手の名を挙げ、他の書き手なら省いたであろう争いまで書き留めている。
名称が紛らわしいため、一点を補っておきたい。円珍に関わるはるかに大きな文書・典籍の一群、すなわち園城寺と東京国立博物館が所蔵する資料は、令和5年(2023年)にユネスコ「世界の記憶」に登録された。石山寺のこの一巻は、その登録対象には含まれない。別の寺院の文庫に伝わった中世の写本であり、勅筆や唐の通行証そのものとしてではなく、円珍の旅程を記す本文ゆえに重んじられている。
巻物を、そして石山寺を見る
まず前提を述べておく。石山寺の経蔵に伝わる書跡・典籍の多くと同様に、行歴抄が一般に公開されることはほとんどない。古い紙は脆く、この種の文書が人目に触れるのは稀な機会に限られる。通常の参拝の中で展示ケースに見いだせると期待して訪れるべきものではない。
とはいえ、それは石山寺を訪れない理由にはならない。京都・大津周辺でも屈指の見どころを備えた寺である。石山寺は天平19年(747年)、良弁によって開かれたと伝わり、寺名の由来となった硅灰石という淡色の結晶質の岩盤の上に直接建てられている。この岩塊そのものが天然記念物に指定されている。国宝の本堂は、岩に張り出すように懸造で建つ。その上方には国宝の多宝塔がそびえ、建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝わる。現存最古の年紀をもつ多宝塔とも称される。
石山寺はまた、紫式部が参籠の折にここで「源氏物語」を起筆したと伝わる寺でもある。瀬田川にかかる名月を眺めた場所として、本堂には源氏の間が残る。文書類を目当てにするなら、注目すべきは境内の最も高い場所に建つ宝物館、豊浄殿である。春と秋に寺蔵の品を中心とした企画展が催される。訪問前に開催期間と展示内容を確かめておくのが、もっとも確実な備えになる。
石山寺の周辺
石山寺は瀬田川の西岸に位置する。瀬田川は、琵琶湖の水が海へ向かう唯一の流出口である。寺から程近い場所には瀬田の唐橋が架かる。日本三名橋の一つに数えられ、近江八景「瀬田の夕照」として古くから親しまれてきた古橋である。寺へ続く参道には地元の名物を扱う店が並び、湖でとれる小ぶりの蜆を使った料理や、寺ゆかりの石餅などが味わえる。
交通の便はよい。京都駅からおよそ三十分、京阪線への乗り換えやJR石山駅からのバス利用で着く。京阪石山寺駅からは徒歩十分ほどである。境内は急がずに歩きたい。楓や四季の花のあいだを登り、多宝塔のそばの眺望点や、川を見下ろす月見亭へと至る道がある。
Q&A
- 石山寺を訪ねれば行歴抄の巻物を見られますか。
- 通常の参拝ではまず見られません。経蔵に伝わる写本類は光に弱く、公開は稀な機会、おもに豊浄殿の企画展に限られます。事前に同館の展示予定をご確認ください。
- ユネスコ「世界の記憶」に登録された円珍の文書と同じものですか。
- 異なります。2023年の登録は園城寺と東京国立博物館が所蔵する別の円珍関係文書・典籍を対象としたものです。石山寺の一巻は、この寺の経蔵に伝わる鎌倉時代の写本で、別の資料です。
- この巻物は円珍の自筆ですか。
- 自筆ではありません。円珍の在世よりかなり後の鎌倉時代に、先行する写本をもとに書写されたものです。本文の由来は円珍自身の旅程の記録にさかのぼりますが、現存する巻物は中世の写しです。
- 真言宗の寺が、なぜ天台僧の旅行記を所蔵しているのですか。
- 石山寺の経蔵は、長い年月をかけて集積された日本有数の寺院文庫で、宗派や時代を広く横断します。複数の伝統に関わる伝記や記録を保管しており、この旅程の記録もその一つです。
- 石山寺では他に何を見ておくとよいですか。
- 国宝の本堂と多宝塔、寺が建つ硅灰石の岩盤、紫式部にちなむ源氏の間、そして四季の花や秋の楓です。近くの瀬田の唐橋も気軽に足をのばせます。
基本情報
| 名称 | 紙本墨書行歴抄〈円珍記〉 |
|---|---|
| 指定区分 | 重要文化財(古文書) 明治36年(1903年)4月15日指定 |
| 時代 | 鎌倉時代(写本) |
| 員数・形状 | 1巻 紙本墨書 |
| 所有者 | 石山寺 |
| 所在地 | 滋賀県大津市 |
| 公開状況 | 常時の公開はなし。稀な機会、おもに豊浄殿の企画展で展示されることがある |
| 拝観時間 | おおむね8:00〜16:30(最新の情報は事前にご確認ください) |
| 交通 | 京阪石山寺駅から徒歩約10分。JR石山駅からバスで石山寺山門前下車 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9314
- 文化遺産オンライン(NII)
- https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/158831
- 大本山 石山寺 公式ホームページ
- https://www.ishiyamadera.or.jp/
- e国宝・e-Museum(国立文化財機構/円珍関係文書)
- https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100166
- 滋賀県観光情報公式サイト(石山寺)
- https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/94/
最終更新日: 2026.06.18