筆と墨で築かれた城、手鑑「翰墨城」
奈良時代から室町時代まで、およそ八百年分の名筆の断簡311葉を一帖に収めた古筆手鑑が「翰墨城(かんぼくじょう)」である。翰は筆、墨は墨。筆墨によって築き上げた城という命名で、昭和36年(1961年)6月30日に国宝(書跡・典籍)に指定された。現在は静岡県熱海市のMOA美術館が保管し、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」、野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」と並ぶ同館所蔵の国宝3件の一つに数えられる。
手鑑とは、経巻や歌集、消息などから切り取られた古筆切を、厚手の台紙を折帖に仕立てた帖面の表裏に貼り込んだ鑑賞用・鑑定用のアルバムを指す。桃山時代以降、茶の湯の流行とともに古筆切を床に掛けて愛玩する習慣が広まり、断簡の収集と鑑定が一つの文化として確立した。手鑑への貼り込みには序列があり、巻頭には天皇の宸翰、続いて親王、公卿、僧侶、歌人の筆跡という順に配されるのが通例である。翰墨城もこの形式に従い、表に154葉、裏に157葉、計311葉を収める。帖の寸法は縦38.2センチ、横31.9センチ。
国宝指定の理由と価値
翰墨城は、京都国立博物館の「藻塩草」、出光美術館の「見努世友」とともに古筆三大手鑑と称される。これに陽明文庫の「大手鑑」を加えて四大手鑑と呼ぶこともあり、いずれも国宝に指定されている。一帖のうちに各時代の筆跡を網羅する手鑑は、日本書道史の縮図ともいうべき存在であり、なかでも翰墨城は成立が早いと考えられている点に特色がある。
注目すべきはその伝来である。翰墨城は、古筆鑑定を家業とした古筆家の別家を興した古筆了仲(1655~1736)に伝わり、鑑定の基本台帳として用いられた。江戸時代、古筆切の筆者や時代の判定は古筆家の極めに大きく依拠しており、翰墨城に貼られた各葉は、いわば筆跡判定の基準資料として機能した。小野道風や藤原行成の筆とは何か。その規範を示す台帳そのものが、この一帖だったのである。
近代に入ると、三井財閥を率いた実業家であり数寄者として知られた益田鈍翁(1847~1938)の所蔵となり、のちにMOA美術館の創立者・岡田茂吉(1882~1955)の収集品に加わった。古筆家の鑑定台帳から近代数寄者の愛蔵品へという来歴は、日本における書の受容史をそのまま映している。
見どころとなる古筆切
折帖という形式上、展示の際に開けるのは全体の一部に限られ、公開のたびに見られる葉が異なる。どの場面が開かれていても、注目したい断簡がいくつかある。
まず伝称筆者の顔ぶれである。聖徳太子、菅原道真、小野道風、藤原佐理、藤原行成、藤原公任といった名が並ぶ。ただし、その多くは江戸時代の鑑定にもとづく「伝」であり、文献的に筆者が確定しているわけではない。聖武天皇の筆と伝えられる「大聖武」は『賢愚経』の断簡で、奈良時代写経の堂々たる楷書の典型として知られる。菅原道真筆と伝わる「白氏文集切 百錬鏡」も収められている。
一方、筆者の比定に高い信頼が置かれている葉もある。唐の詩人・白居易の詩文集『白氏文集』巻第六十三のうち、詩題「春遊」の部分にあたる六行の断簡である。古筆了仲により藤原行成(972~1027)筆と極められ、東京国立博物館所蔵の行成自筆「白氏詩巻」や自筆消息と筆致が一致することから、行成真筆の一葉とされている。平安貴族の教養の中核にあった白居易の詩を、当代随一の能書が書写した断簡であり、漢詩文と和様の書が交差する瞬間を目の当たりにできる。
料紙にも目を向けたい。藍染の紙、金銀の界線、雲母刷りの文様など、各葉の紙そのものが装飾料紙の変遷をたどる標本となっている。書と紙、二つの工芸史を一帖で通覧できる点も手鑑の魅力である。
MOA美術館での公開
翰墨城は常設展示されていない。紙本の書跡は光に弱く、保存上の理由から公開は年に一度程度の期間限定となる。例年、冬季の「名品展」で「紅白梅図屏風」「色絵藤花文茶壺」とともに国宝3件が揃って公開されることが多い。開かれる場面は毎回変わるため、再訪のたびに異なる古筆切に出会える。訪問前に同館の展覧会カレンダーで公開時期を確認しておきたい。
MOA美術館は相模灘を見下ろす高台に建ち、2017年に現代美術作家・杉本博司氏と建築家・榊田倫之氏の主宰する新素材研究所の設計で展示空間を刷新した。屋久杉や黒漆喰など日本の伝統素材を用いた低照度の展示室は、紙と墨の作品をじっくり見るのに適している。所蔵品の展示は原則として写真撮影が可能で、国宝も例外ではない。開館時間は9時30分から16時30分(最終入館16時)、休館日は木曜(祝休日の場合は開館)と展示替え日である。
周辺情報とアクセス
JR熱海駅は東京駅から東海道新幹線で40分前後。駅前バスターミナル8番乗り場から「MOA美術館行き」のバスに乗れば、約7分で終点の美術館前に着く。館内には豊臣秀吉の黄金の茶室の再現や能楽堂があり、蕎麦処、日本料理店、パティシエ鎧塚俊彦氏監修の菓子店など飲食施設も充実している。鑑賞とあわせて半日を見込みたい。
熱海は近代以来の温泉地であり、海沿いの湯宿、起雲閣などの近代建築、年間を通じて開催される海上花火大会と、美術館以外の楽しみも多い。1月下旬から2月にかけては日本で早咲きとして知られる熱海梅園の梅まつりが開かれ、翰墨城が公開される名品展の会期と重なる年が多い。書と梅を同じ日に見る旅程も組みやすい。
Q&A
- 翰墨城はいつでも見られますか。
- 常設展示はされていません。保存上の理由から公開は期間限定で、例年は年に一度程度、冬季の名品展などで展示されます。MOA美術館の公式サイトで展覧会スケジュールを確認してから訪問してください。
- 311葉すべてを一度に見ることはできますか。
- できません。折帖形式のため展示の際に開ける場面は一部に限られ、公開のたびに見られる葉が入れ替わります。訪れる回ごとに異なる古筆切と出会えるのも、この作品の楽しみ方の一つです。
- 「伝聖徳太子」「伝菅原道真」の筆跡は本人の真筆ですか。
- 多くは江戸時代の古筆鑑定にもとづく伝称で、筆者が文献的に確定しているわけではありません。ただし断簡そのものは奈良~室町時代の真正な古写本であり、藤原行成筆とされる「白氏文集切 春遊」のように、自筆資料との比較から真筆と認められている葉もあります。
- 館内で写真撮影はできますか。
- MOA美術館では所蔵品の展示について原則として撮影が認められており、国宝も対象です(フラッシュ撮影は不可)。特別展や借用作品では制限される場合があるため、各展示室の表示に従ってください。
基本データ
| 名称 | 手鑑「翰墨城」(三百十一葉) |
|---|---|
| ふりがな | てかがみかんぼくじょう |
| 指定区分 | 国宝(書跡・典籍) |
| 指定年月日 | 昭和36年(1961年)6月30日 |
| 員数 | 1帖 |
| 時代 | 奈良~室町時代(8~15世紀) |
| 寸法 | 縦38.2センチ×横31.9センチ(一帖) |
| 構成 | 古筆切311葉(表154葉・裏157葉) |
| 所有者 | 世界救世教 |
| 保管施設 | MOA美術館(静岡県熱海市桃山町26-2) |
| 公開状況 | 期間限定公開(例年1回程度)。開館時間9:30~16:30(最終入館16:00)、木曜休館(祝休日の場合は開館)、展示替え日休館 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース 手鑑「翰墨城」(三百十一葉)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/755
- MOA美術館 手鑑「翰墨城」
- https://www.moaart.or.jp/collections/090/
- MOA美術館 手鑑「翰墨城」白氏文集切・春遊
- https://www.moaart.or.jp/?collections=090-1
- MOA美術館 利用案内
- https://www.moaart.or.jp/guide/
- WANDER 国宝 手鑑 翰墨城
- https://wanderkokuho.com/201-00755/
最終更新日: 2026.06.10