掛川城御殿 ― 全国に四棟だけ残る現存城郭御殿

城に天守があるのは珍しくない。だが、城主が政務を執り、客を迎え、寝起きした御殿が当時のまま残っている城は、全国にわずか四つしかない。掛川城御殿は、そのうちの一つである。

天守が藩の武威を示す建物だとすれば、御殿は藩政が実際に動いた場所だった。儀式や公式の対面を行う場であり、城主の公邸であり、藩の役所でもある。三つの役割を一棟のなかに併せ持つ、書院造の建築である。掛川城御殿は安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて棟ごとに再建され、その大部分が今日まで残っている。

残り方の良さが、この建物の値打ちを決めている。ほかの三棟がいずれも御殿の一部分しか残していないのに対し、掛川では対面のための表向きの座敷だけでなく、城主の私的な小書院、そして東側に並ぶ役人たちの執務空間まで、ほぼ全体がそろっている。藩の統治機構がどう配置されていたのかを、部屋の並びをたどりながら確かめられる。

地震で倒れ、再び建てられた御殿

かつては本丸の位置にも御殿があった。これが宝永4年(1707年)の大地震で倒壊したのをきっかけに、低地の二の丸へ移される。だがその二の丸御殿も長くは保たなかった。嘉永7年(安政元年・1854年)の安政東海地震が東海沿岸を襲い、御殿は二度目の倒壊をみる。

再建を命じたのは、当時の城主・太田資功である。工事は六年がかりで段階的に進められた。広間と書院の棟がまず安政2年(1855年)に、諸役所の棟が万延元年(1860年)に、小書院の棟が文久元年(1861年)に完成している。五万石の掛川藩は、この御殿を幕末まで藩庁として用いた。

建物が生き延びた理由は、明治以降の歩みにある。廃藩のあとも御殿は取り壊されず、町に下げ渡されて次々と用途を変えていった。勤番所、徳川家の兵学校、学校、女学校、町役場、のちには市庁舎、農協、消防署。部屋の使われ方は何度も変わったが、構造そのものは立ち続けた。昭和47年から50年にかけて保存修理が行われ、江戸時代の姿に復され、昭和55年(1980年)1月26日、国の重要文化財に指定された。

なぜ重要文化財なのか

指定の根拠は二つある。一つは希少さである。かつて全国に数多くあった城のほとんどは明治の廃城後に解体され、防御上の価値を持たない御殿は真っ先に失われた。取り壊しを免れたわずかな例は、藩の行政がどう物理的に組み立てられていたかを示す数少ない手がかりとして扱われている。

もう一つは、建物の完全さである。文化庁の解説は、広間・書院の主要部だけでなく、小書院や諸役所までほぼ全体が残る点を珍しいと記す。屋根の小屋組に納められた二枚の棟札が建物とともに附(つけたり)指定されており、再建の年代を裏づけている。建物は一重、諸役所部の一部が二階建て、桟瓦葺の木造一棟として登録されている。

内部の見どころ

御殿は書院造で建つ。畳を敷き詰め、壁ではなく襖で部屋を仕切り、座敷の格を一段ずつ落としていくことで身分の上下を空間そのものに刻んだ、武家の正式な住宅建築である。全体は七棟が連なり、用途に応じておよそ二十の部屋に分かれる。

はじめに見たいのは、御殿の中心である書院棟だ。主室の御書院上の間には床と棚が設けられ、公式の対面のとき城主が着座した。その手前に次の間と三の間が続き、謁見を許された者はここで控えた。部屋ごとに床の高さや装飾が変わり、誰がどこに座るべきかが一目でわかる仕掛けになっている。

小書院棟は城主の私的な側にあたる。執務にあたる小書院の隣に、長い囲炉裏を切った長囲炉裏の間が置かれ、表の儀式空間とは違ったくつろぎの場になっている。北側にはかつて勝手台所があったが、明治期に撤去された。

藩がどう動いていたかを知りたい人にとって面白いのは、東側に並ぶ諸役所の棟である。目付や奉行といった役職ごとの部屋、警護の詰所、藩の会計をあずかる賄方、書類を収める御文証などがここに集まる。入口が身分で分かれていた点にも注目したい。城主と家老は式台玄関から、ほかの武士は玄関東側から、足軽は北側の土間から御殿に入った。身分の秩序が間取りそのものに書き込まれている。

城のまわり

御殿は掛川城の天守と同じ城域にある。この天守は平成6年(1994年)に完成した木造復元で、戦後の日本で最初に木造で再建された天守だ。ここで一つ覚えておきたい違いがある。天守は現代の復元建築であり、その足もとの御殿こそが幕末の本物の建物だという点である。天守だけ見て帰る人は多いが、隣の低い御殿に足を延ばす価値は十分にある。

同じ城山公園には、掛川産の煎茶や抹茶を味わえる二の丸茶室や、近くに公開されている旧商家の竹の丸がある。少し歩けば二の丸美術館、ステンドグラス美術館、明治の農村自助運動の拠点だった大日本報徳社も近い。天守・御殿の入場券の半券を持っていれば、二つの美術館で割引が受けられる。

掛川へのアクセスはよい。城はJR掛川駅から北へ徒歩7分。掛川駅は東海道新幹線が停まるため、東京・名古屋いずれからも列車で1時間半ほどの距離にある。車なら東名高速道路の掛川インターチェンジから約10分で、大手門のそばに有料駐車場がある。

Q&A

Q御殿と天守はどう違うのですか。
A天守は藩の武威を示す高い櫓で、掛川城の天守は平成6年(1994年)の木造復元です。御殿はその足もとに建つ平屋の建物で、城主が暮らし、藩政が営まれた場所です。重要文化財に指定されているのは、現存する御殿のほうです。
Q建物はいつのものですか。
A現在の御殿は、嘉永7年(1854年)の安政東海地震で倒壊した先代に代わり、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて段階的に再建されたものです。幕末の城郭御殿としては数少ない現存例です。
Qなぜそれほど貴重なのですか。
A城内に御殿が残るのは全国で四例だけです。本丸御殿が川越城と高知城、二の丸御殿が掛川城と二条城。掛川は表の座敷から役人の執務室まで、ほぼ全体がそろって残る点が高く評価されています。
Q中に入れますか。料金はいくらですか。
A見学できます。天守閣と御殿の共通券で、大人・高校生410円、小中学生150円です。開館は9時から17時(入館は16時30分まで)で、年中無休です。
Q主要都市からの行き方を教えてください。
A東海道新幹線で掛川駅まで来れば、城は北へ徒歩7分です。車なら東名高速の掛川インターチェンジから約10分で、大手門付近に有料駐車場があります。

基本情報

名称掛川城御殿(かけがわじょうごてん)
指定区分重要文化財(国指定・建造物)
指定年月日昭和55年(1980年)1月26日
種別・指定番号近世以前/住宅、指定番号02096
員数1棟(附 棟札2枚)
年代広間・書院部 安政2年(1855年)、諸役所部 万延元年(1860年)、小書院部 文久元年(1861年)/江戸末期
構造一重、諸役所部一部二階、書院造、桟瓦葺
所有者掛川市
所在地静岡県掛川市掛川1142番地の1
アクセスJR掛川駅(東海道新幹線)から徒歩7分、東名高速掛川ICから車で約10分
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)、年中無休
入場料大人・高校生410円、小中学生150円(天守閣・御殿共通券)

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「掛川城御殿」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1153
文化遺産オンライン(国立文化財機構)「掛川城御殿」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188993
掛川城公式サイト「御殿」
https://kakegawajo.com/goten/
掛川城公式サイト「ご利用案内」
https://kakegawajo.com/user-guide/
しずおか文化財ナビ「掛川城御殿」
https://www.pref.shizuoka.jp/kankosports/bunkageijutsu/bunkazai/1002825/1041003/1041885/1004960/1020791.html

最終更新日: 2026.06.03