興国寺城跡 — 北条早雲が城主となった「境目の城」

愛鷹山の南麓から舌のように張り出した低い尾根の先端に、興国寺城跡はある。沼津市根古屋。天守も御殿も復元門もなく、訪ねる者を迎えるのは土そのものだ。本丸を囲む急角度の土塁、その背後を断ち切る深い空堀、かつて建物が載っていた高台。これらが平成7年(1995年)3月17日に国の史跡へ指定された。指定の範囲はその後も広げられ、平成12年(2000年)、平成19年(2007年)、平成24年(2012年)に追加指定が行われている。

この城が史上よく知られているのは、ひとりの人物のためである。戦国大名・北条早雲、すなわち伊勢宗瑞が、自立への第一歩をしるした城。のちに関東一円を治めることになる後北条氏の歩みは、この丘から始まった。

家臣の褒賞から、戦国大名の出発点へ

北条早雲と呼ばれる人物は、はじめ伊勢新九郎と名乗る、さほど高い家格でもない武士であった。妹が駿河守護・今川義忠の側室となっており、その縁を頼って今川家に身を寄せていた。義忠が急死すると、今川家は家督をめぐる争いに陥る。新九郎は幼い後継者・今川氏親を助け、この争いの収拾に功をあげた。

褒賞は長享2年(1488年)に与えられた。駿河国富士郡下方荘の十二郷を受け、興国寺城主となったのである。築城の年代そのものははっきりしない。彼が最初に手にした城が、この場所に建っていたのかどうかを疑う研究者もいる。ただ、史料が一致して伝えるのは、その出来事の意味のほうだ。自身の所領を持たなかった男が、城と土地を得た。

早雲はこの城に長くとどまらなかった。延徳3年(1491年)には隣国の伊豆へ入り、堀越公方・足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となる。新たに韮山城を築いて居城を移し、駿河を後にした。借りた足場であった駿河から、彼はみずからの領国を持つ大名へと変わっていた。

城は早雲が去ったのちも使われ続けた。天文18年(1549年)には今川義元が城地にあった興国寺を移転させ、城を拡張している。義元の死後、城は何度も持ち主を変えた。永禄11年(1568年)以降は駿河に侵入した後北条氏の城となり、対武田の最前線として元亀2年(1571年)には武田軍の攻撃を退けている。同じ年に北条と武田が和を結ぶと、城は武田方へ引き渡され、武田一門の穴山梅雪の持城となった。天正10年(1582年)に武田勝頼が滅びると徳川家康のものとなり、家康の家臣が次々と入った。最後の城主・天野康景の代を経て、慶長12年(1607年)に城は廃された。

なぜ史跡に指定されたのか

興国寺城跡を国の史跡として守るべき理由は、大きく二つある。ひとつは戦国時代史における位置づけだ。北条早雲の台頭に結びつく城は、それだけで歴史的な重みを持つ。早雲の事績は、戦国という時代そのものの幕開けの目印として語られることが多いからである。

もうひとつは、遺構の残り方の良さである。同じ時代の城の多くは、いまや地図上の地名としてしか残っていない。ここでは土塁や堀の形が読み取れる。土塁・空堀・天守台は、古い城絵図の描くところとよく合致している。浅野文庫の蔵する興国寺城絵図、また地誌『駿河雑志』所収の興国寺城図がそれにあたる。文献の記録と現地の地形がこれほどよく一致するため、この城跡は戦国期の境目の城がどう築かれ、どう使われたかを知るうえで欠かせない手がかりとされている。指定範囲には本丸、石火矢台、二の丸、北の曲輪、三の丸の土塁の一部が含まれる。

訪れたら見ておきたいもの

興国寺城は平山城である。山頂ではなく、低い高まりの上に築かれた城だ。曲輪は尾根に沿って南から北へ、三の丸・二の丸・本丸と並ぶ。二の丸あたりまでは車で入ることができ、城跡全体は30分ほどで歩いて回れる。

本丸は標高およそ36メートル、土塁の内側で東西約60メートル、南北約50メートルの広さがある。土塁の下に立つと、その規模が体でわかる。これを人の手が築いたものだと気づくまで、自然の山だと思っていた、と訪れた人がしばしば書き記すほどだ。

最も高い場所には、伝承で天守台と呼ばれる高台がある。昭和57年(1982年)の発掘調査では、ここから東西二棟の建物の礎石が見つかった。それぞれ約7メートル×8メートルの規模である。高台には石垣の一部も残る。この年代の城ではまだ石垣そのものが珍しく、立ち止まって眺める価値のある遺構だ。

本丸の背後、北側には、多くの来訪者が最も印象に残ると語る遺構が横たわる。尾根を断ち切るように掘られた大きな空堀である。深く、幅も広い。草の少ない時期にはその形がはっきりと読める。本丸の東には石火矢台があった。石火矢とは初期の大砲のことだ。西側の櫓台からは駿河湾が開け、晴れた日には伊豆半島まで望める。

本丸の中には穂見神社が鎮座する。その立地にもかかわらず、この神社は城の軍事的な歴史とは関わりがない。安政の大地震ののち、収穫の減った周辺の農民が五穀豊穣を願い、いまの山梨にあたる地の神社から農業の神を勧請して祀ったものである。社の傍らには二つの石碑が立つ。初代城主・北条早雲のものと、最後の城主・天野康景のものだ。

城のまわりを歩く

興国寺城は、なぜここに築かれたのかを地形そのものが語る場所に立つ。南にはかつて浮島ヶ原と呼ばれる湿地帯が広がっていた。人も馬も容易には踏み込めぬほど地面が柔らかく、城の側面を守る天然の障壁となっていた。愛鷹山の裾を東西に走る根方街道は城地の一部を通り抜け、そこから南へ伸びる枝道がかつて海沿いの東海道と結んでいた。城は交通の結節点を押さえていたのである。

沼津の市街は、いまでは城跡を起点に足をのばすのに都合がよい。駿河湾に面したこの街には新鮮な海の幸で知られる漁港があり、近くには千本松原の長い松林が続く。背後には愛鷹山がそびえ、半日の山歩きを楽しむこともできる。南へ向かえば、伊豆半島の温泉地や城跡も射程に入る。

Q&A

Q天守や建物は見られますか。
A建物はありません。興国寺城は慶長12年(1607年)に廃城となり、その後に再建されたものはありません。見どころは遺構そのもの、すなわち土塁・空堀・天守台です。当時の建物を期待される方には物足りないかもしれませんが、城の縄張りに関心のある方には見ごたえがあります。
Q公共交通でのアクセスは。
A最寄り駅はJR東海道本線の原駅と沼津駅です。いずれの駅からも、城跡近くの東根古屋のバス停へ向かう路線バスがあります。原駅からは平坦な道を徒歩30分ほどでも着きます。
Q見学にはどのくらい時間がかかりますか。
A三の丸・二の丸・本丸を歩き、天守台まで登るなら30分から40分ほどで回れます。多くの人が見どころに挙げる背後の大空堀をじっくり観察するなら、さらに余裕をみておくとよいでしょう。
Q訪れるのに良い季節は。
A開けた場所なので一年を通して訪ねられます。土塁や堀の形が最も読み取りやすいのは、夏草の枯れた晩秋から早春にかけてです。土塁の稜線や堀の輪郭をたどりやすくなります。
Q名城に選ばれている城ですか。
Aはい。興国寺城は続日本100名城に選定されています。スタンプは本丸内の穂見神社の脇に箱が置かれ、いつでも押すことができます。

基本情報

名称興国寺城跡(こうこくじじょうあと)
所在地静岡県沼津市根古屋・青野
指定区分国指定史跡
指定年月日平成7年(1995年)3月17日/平成12年・19年・24年に追加指定
城の形式平山城
本丸標高約36メートル、土塁内側で東西約60メートル・南北約50メートル
時代15世紀後期から使用、慶長12年(1607年)に廃城
アクセスJR東海道本線・原駅から徒歩約30分。原駅または沼津駅からバスで東根古屋方面
料金・公開無料。開放された城跡で、見学時間の定めなし

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)— 興国寺城跡
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1384
攻城団 — 興国寺城
https://kojodan.jp/castle/506/
城びと — 北条早雲旗揚げからはじまる東駿河の拠点城郭
https://shirobito.jp/article/889

最終更新日: 2026.05.25