柿本家バラッケ(旧板東俘虜収容所)――日本初演「第九」の地に残る、たった一棟の証言者

徳島県鳴門市の穏やかな丘陵地に、切妻屋根を伸びやかにかける木造平屋の建物が静かに佇んでいます。一見すると田園地帯によくある素朴な建物ですが、これは第一次世界大戦中に開設された「板東俘虜収容所」のバラッケ(兵舎)として実際に使用されていた、現存きわめてまれな貴重な建造物です。アジアで初めてベートーヴェンの交響曲第九番が全曲演奏された地、その兵舎の現物が、平成16年(2004年)に国の登録有形文化財となり、今は道の駅「第九の里」物産館として、訪れる人々を迎え入れています。

歴史的背景――青島から板東へ

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた日本はドイツの租借地・青島(チンタオ)を攻撃しました。捕虜となったドイツ兵・オーストリア=ハンガリー兵およそ4,700名は日本国内の12か所の収容所に分散して収容され、1917年(大正6年)4月、徳島・丸亀・松山の収容所に分散していた捕虜が、現在の鳴門市大麻町板東に新設された「板東俘虜収容所」に集約されました。閉鎖までの約3年間、ここで生活した捕虜の数はおよそ953名にのぼります。

板東俘虜収容所が日独両国で語り継がれてきた最大の理由は、捕虜に対する人道的な扱いにあります。所長の松江豊寿陸軍中佐は、戊辰戦争で敗れて斗南藩に移住させられた旧会津藩士の家に生まれ、敗者の苦しみを父から聞いて育った人物でした。松江所長の方針のもと、捕虜たちは所内で製パン所やビール醸造、印刷所を運営し、ドイツ語の所内新聞『ディ・バラッケ』を発行し、122回にもおよぶ音楽・演劇活動を行いました。なかでも1918年(大正7年)6月1日に「徳島オーケストラ」によって演奏されたベートーヴェン交響曲第九番は、日本のみならずアジアにおける同曲の初の全曲演奏として、いまもこの土地を「第九の里」と呼ばしめている由来となっています。

「バラッケ」とは何か

ドイツ語のバラッケ(Baracke)は「兵舎」や「仮設小屋」を意味する言葉です。板東俘虜収容所では、長く伸びる細長い木造平屋の建物が複数並び立ち、捕虜たちの生活の場となっていました。建物は中央に土間通路を通し、左右に低い板床を張って二間ごとに間仕切りを設ける構造で、英国積み(イギリス積み)のレンガ基礎の上に頑丈な木造の柱を立て、洋小屋トラスを組んで天然スレート葺きの切妻屋根を載せるという構成でした。

1920年(大正9年)4月に収容所が閉鎖され、捕虜たちが帰国した後も、これらの建物がただちに取り壊されたわけではありません。第二次世界大戦後には引揚者住宅として活用され、その後役目を終えると地元の農家に払い下げられ、解体・移築の上で牛舎などに転用されていきました。柿本家もそうした一棟を購入し、桧地区にある自家の敷地に移築改造して、長年にわたり牛舎として大切に使い続けてきたのです。図らずも、この素朴な農作業場が、世界史の一断面を未来へ運ぶ役割を担っていたといえます。

なぜ文化財に指定されたのか

21世紀に入る頃には、原型をとどめたバラッケはほとんど残されていませんでした。鳴門市内に現存が確認されたいくつかの遺構の中で、柿本家のものは、外壁や柱の多くこそ農家での再利用過程で取り替えられていたものの、バラッケ建築の最大の特徴である洋小屋トラスや母屋、垂木の一部に当初の部材が良好な状態で残されていることが調査で判明しました。これは収容所建築の構造を伝える、現存きわめて貴重な実物資料です。

平成16年(2004年)11月8日、柿本家バラッケは「同種建築の遺存例として貴重」と評価され、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。さらに平成18年(2006年)には鳴門市が建物を譲り受け、ドイツ館近くの現在地に移築され、道の駅「第九の里」の物産館として新たな命を得ることとなります。移築にあたっては当初の洋小屋トラス、母屋・端母屋、柱や垂木の一部の当初材を活かしつつ、外壁は南京下見板張りに半間ごとに押縁を打って復元し、屋根は当初の意匠を踏襲してガルバリウム鋼板の四半葺き(45度の角度で斜めに葺く工法)が採用されました。第一次世界大戦の遺構として、二度と愚かな戦争を繰り返さないようにと願いを込めて再生された施設であり、文化財的価値とともに、平和へのメッセージを担う建造物でもあります。

魅力・見どころ

道の駅の物産館として営業しているため、訪れた多くの人は、まさかその建物自体が文化財だとは気づかずに足を踏み入れます。ぜひ天井を見上げてみてください。100年以上の時を経た木材を含む大きな洋小屋トラスが、力強い幾何学を描いて屋根を支えている様子をはっきりと見ることができます。館内には移築の経緯やバラッケの歴史を紹介する解説パネルも掲示されています。

建物の規模は桁行(長さ)27.3メートル、梁間(奥行)7.28メートルですが、これは当初のバラッケ1棟(長さ約73メートル)の約3分の1強にあたります。それでも収容所内の生活空間の雰囲気を体感するには十分な大きさです。物産館では鳴門の特産品「なると金時」を使った菓子類のほか、収容所時代の食文化にちなんだ本場仕込みのソーセージやドイツパンなども販売されており、目と舌の両方で歴史を味わえる場となっています。

周辺情報

柿本家バラッケのすぐ隣には、第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜と地域住民との交流を伝える博物館「鳴門市ドイツ館」があります。捕虜たちの暮らしぶり、町の人々との心温まる交流、第九アジア初演のエピソードなどが、映像とロボットによる「第九シアター」をはじめとする多彩な展示でわかりやすく紹介されています。徒歩数分の距離には、収容所跡地そのものを公園として整備した「ドイツ村公園」もあり、当時の建物のレンガ基礎や捕虜たちが舟遊びを楽しんだ池、四国の収容所で亡くなった11名の捕虜を弔う慰霊碑などを見ることができます。

少し足を延ばすなら、標高120メートルの丸山山頂に建つ「ばんどうの鐘」がおすすめです。1983年(昭和58年)に日独友好と恒久平和のシンボルとして建てられた塔で、鐘そのものはドイツ産業連盟の鋳造によって日本に贈られました。同じ敷地内には、社会運動家・賀川豊彦を顕彰する「鳴門市賀川豊彦記念館」も併設されています。さらに鳴門の名物・鳴門の渦潮や、世界の名画約1,000点を陶板で原寸大に再現した「大塚国際美術館」など、鳴門は周辺観光の見どころにあふれており、ゆったり1日を過ごす拠点としてもおすすめです。

Q&A

Q柿本家バラッケの内部に入ることはできますか?
Aはい、可能です。建物は道の駅「第九の里」の物産館として営業しており、開館時間内であればどなたでも自由に出入りできます。入場は無料です。ぜひ天井を見上げて、保存された当初の洋小屋トラスをご覧ください。
Q板東俘虜収容所そのものは現在も残っていますか?
A建物自体は残っていませんが、収容所跡地は「ドイツ村公園」として整備されており、柿本家バラッケから徒歩数分で訪れることができます。園内には当時のレンガ基礎の一部や捕虜が利用した池、慰霊碑などが保存されています。
Qどうしてこの地域は「第九の里」と呼ばれているのですか?
A1918年(大正7年)6月1日、板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜によってベートーヴェン交響曲第九番がアジアで初めて全曲演奏されたためです。この歴史的なエピソードに由来して、地域および道の駅は「第九の里」と名付けられています。
Q見学にはどれくらいの時間が必要ですか?
A柿本家バラッケ(物産館)、鳴門市ドイツ館、ドイツ村公園を組み合わせて見学する場合は、合計2〜3時間ほどみておくとゆっくり楽しめます。ばんどうの鐘までの登山や大塚国際美術館を加えれば、丸1日のプランも組めます。
Q物産館ではどのようなお土産がありますか?
A鳴門特産の「なると金時」を使った菓子類や鳴門わかめなどの地元名産品のほか、収容所時代のドイツ文化にちなんだ本場仕込みのソーセージやドイツパンも取り扱っています。歴史と食文化の両方を味わえるラインナップとなっています。

基本情報

名称 柿本家バラッケ(旧板東俘虜収容所)
種別 国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 平成16年(2004年)11月8日
建設の年代 大正6年(1917年)/昭和43年(1968年)移築/平成18年(2006年)現在地に移築
構造 木造平屋建、切妻造、スレート葺、建築面積198㎡
規模 桁行27.3m、梁間7.28m
所有者 鳴門市
所在地 徳島県鳴門市大麻町桧字東山田53
現在の用途 道の駅「第九の里」物産館
開館時間 道の駅物産館 9:00〜17:00/鳴門市ドイツ館 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎月第4月曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜31日
アクセス JR高徳線「板東駅」から車で約10分/神戸淡路鳴門自動車道「鳴門IC」から車で約10分/無料駐車場 約100台

参考文献

文化遺産オンライン 柿本家バラッケ(旧板東俘虜収容所)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151035
鳴門市公式ウェブサイト 国登録有形文化財(建造物)柿本家バラッケ(旧板東俘虜収容所)
https://www.city.naruto.tokushima.jp/manabu/bunka/bunkazai/kuni_yukei/7_kakimotoke-barracke.html
鳴門市公式ウェブサイト 国指定史跡 板東俘虜収容所跡
https://www.city.naruto.lg.jp/promotion/bunkazai/bando_furyo_shuyojo.html
鳴門市ドイツ館 公式ウェブサイト
https://doitsukan.com/
道の駅「第九の里」物産館 公式ウェブサイト
https://www.daikunosato-bussankan.jp/

最終更新日: 2026.04.21