永暦元年四月二日の奥書

京都国立博物館が所蔵する国宝「芦手絵和漢朗詠抄」は、上下二巻からなる平安時代後期の歌巻である。下巻の巻末に「永暦元年四月二日、右筆黷之、司農少卿伊行」という奥書があり、永暦元年(1160年)、藤原伊行の手で書写されたことが明確にわかる。書写の年月日と筆者がここまで確実に判明する平安時代の遺品は数少ない。

書かれている本文は『和漢朗詠集』。平安中期の公卿・藤原公任(966~1041年)が11世紀初頭に撰した詞華集で、漢詩文の秀句と和歌をあわせて約804首を収める。朗詠、すなわち節をつけて声に出して詠じるための撰集であり、平安貴族の教養の基礎として広く愛読された。本品は上巻に四季の部、下巻に雑の部を収めた完本で、平安時代に書写された『和漢朗詠集』が欠けることなく二巻揃って残る点だけでも貴重といえる。

芦手絵という遊び心

料紙には書写に先立って下絵が施されている。群青、緑青、代赭、銀泥などの絵具を用い、水辺の葦、水鳥、飛ぶ鳥、岩、柳、流水、そして水に半ば沈んだ片輪車といった景物が描かれる。

目を凝らすと、葦の茎や鳥の姿のなかに、意匠化された文字が紛れ込んでいることに気づく。これが「芦手」と呼ばれる装飾技法である。文字を絵の一部のようにくずして景物に溶け込ませるもので、平安後期の貴族社会で流行した。隠された文字は本文の歌の語句と呼応しているとされ、詠み手は歌を口ずさみながら、紙面のどこにその言葉が潜んでいるかを探すことになる。一枚一枚が小さな謎解きとして仕立てられているわけである。

装飾と本文が互いに響き合う構成は、王朝貴族の美意識と遊戯精神をそのまま紙の上にとどめている。

国宝指定の理由

本品は昭和26年(1951年)6月9日、書跡・典籍の部で国宝に指定された(指定番号00020)。

第一の理由は筆者にある。藤原伊行は、三蹟の一人藤原行成を祖とする世尊寺家の六代目当主で、当代屈指の能書と称された。平治元年(1159年)の二条天皇大嘗会、仁安元年(1166年)の六条天皇大嘗会では、儀式用屏風の色紙形の揮毫者に選ばれている。しかし伊行の真筆として確実に伝わる遺墨は、この二巻のほかに知られていない。署名入りの奥書を持つ本品は、伊行の書風を知るための唯一無二の基準作となっている。

第二に、書そのものの質である。伊行は筆線の強弱を細かく使い分け、文字に抑揚を持たせる。平安中期以来の流麗な様式に重厚さを加えた筆致は、12世紀後半という時代の書の到達点を示すものと評価される。

第三に、芦手絵を下絵とする『和漢朗詠集』の完本という点である。書と料紙装飾が一体となった作例として、平安時代のかな書の世界を考えるうえで欠かせない位置を占めている。

筆者・藤原伊行とその家

伊行は能書藤原定信の子として生まれ、従五位上・宮内少輔に至った。没年は安元元年(1175年)頃とされる。書のほかにも文化史上の足跡は大きい。娘に書き与えた『夜鶴庭訓抄』は現存最古の日本の書論書とされ、また『源氏物語』の現存最古の注釈書『源氏釈』の著者ともされる。

その娘こそ、歌人建礼門院右京大夫である。高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)に仕え、平資盛との恋と平家一門の滅亡を『建礼門院右京大夫集』に書き残した。父から書を、箏の名手であった母から音楽を受け継いだと伝わる。本品を眺めるとき、文事を家業とした世尊寺家の空気が紙背から立ちのぼってくるようである。

二巻はのちに遠江掛川藩主太田家に伝来し、近代には実業家原三溪の手を経たともいわれ、現在は独立行政法人国立文化財機構の所蔵となっている。

鑑賞の手引き

本品は京都国立博物館の常設展示品ではない。彩色料紙は光に弱く、公開は名品ギャラリーでの展示替えや特別展への出品に限られる。数年に一度程度の公開と考え、訪問前に同館の展示スケジュールを確認しておきたい。

一方で、国立文化財機構の「e国宝」サイトでは高精細画像が公開されており、銀泥の輝きや筆線の肥痩まで画面上で拡大して確かめられる。実物公開を待つあいだに画像で芦手の文字を探しておけば、対面の際の楽しみはいっそう深まるはずである。

展示されていない時期でも、平成知新館では書跡・絵画・工芸の名品が随時公開されており、平安のかな書や装飾経の優品に出会える機会は多い。

周辺情報

京都国立博物館は東山七条に位置する。道を挟んだ向かいには千体の千手観音立像で知られる三十三間堂(蓮華王院本堂)があり、12世紀の美術を堂内で体感できる。北へ徒歩約10分で豊国神社と方広寺の大鐘、南東へ徒歩約10分で長谷川等伯の障壁画を有する智積院に至る。河井寛次郎記念館も徒歩圏内で、半日から一日かけて美術と工芸を巡るのに適した一帯である。

アクセスは京阪本線七条駅から徒歩約7分、またはJR京都駅から市バス206・208系統で「博物館三十三間堂前」下車すぐ。

Q&A

Q「芦手絵」とはどのような技法ですか。
A文字を葦や鳥、岩などの景物に見立ててくずし、絵の一部のように描き込む装飾技法です。平安後期の貴族社会で流行し、本品では隠された文字が本文の歌の語句と呼応しているとされます。
Qいつ京都国立博物館で見られますか。
A常設展示はされていません。保存上の理由から公開は数年に一度程度の展示替えや特別展に限られるため、同館の公式サイトで展示予定を確認してください。e国宝サイトでは高精細画像をいつでも閲覧できます。
Q藤原伊行はどのような人物ですか。
A三蹟の一人藤原行成を祖とする世尊寺家の六代目で、二条・六条両天皇の大嘗会屏風色紙形を揮毫した当代一流の能書です。現存最古の書論書『夜鶴庭訓抄』の著者であり、歌人建礼門院右京大夫の父にあたります。
Q上下二巻にはそれぞれ何が書かれていますか。
A上巻には春夏秋冬の四季の部、下巻には雑の部が収められています。藤原公任撰『和漢朗詠集』の全体を写した完本で、下巻末尾の奥書に永暦元年(1160年)の書写年が記されています。

基本データ

名称芦手絵和漢朗詠抄〈藤原伊行筆〉(あしでえわかんろうえいしょう)
指定区分国宝(書跡・典籍) 昭和26年(1951年)6月9日指定 指定番号00020
員数2巻(上巻:四季の部、下巻:雑の部)
時代平安時代 永暦元年(1160年)四月書写奥書(下巻)
筆者藤原伊行(世尊寺家六代、安元元年〈1175年〉頃没とされる)
所有者独立行政法人国立文化財機構
保管施設京都国立博物館(京都府京都市東山区茶屋町527)
公開状況常設展示なし。展示替え・特別展時に不定期公開

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)芦手絵和漢朗詠抄〈藤原伊行筆〉
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/10331
京都国立博物館 名品紹介 芦手絵和漢朗詠集抄
https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/shoseki/item01/
e国宝(国立文化財機構)芦手絵和漢朗詠抄
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101065&content_part_id=0&content_pict_id=0
文化遺産オンライン 芦手絵和漢朗詠抄〈藤原伊行筆〉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207280

最終更新日: 2026.06.11