秋草文壺 ― 土に刻まれた平安の秋

胴の三方に、芒の株が大きくしなっている。細い箆先で一気に引いたとみられる線は、風が一度吹き抜けた瞬間の野を写し取ったかのようだ。肩へ視線を移すと、柳の枝や瓜の蔓のあいだに蜻蛉が一匹。器の表面ぜんたいが、秋の枯野を切り取った一枚の絵になっている。これが国宝「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」である。日本でつくられた陶磁器のなかでも、もっとも高く評価される作品のひとつだ。

器高は約40.6センチメートル。口頸部は喇叭状に大きく開き、肩が豊かに張り、裾は締まって平底へと落ちる。素地は灰白色の半磁質で、肩には淡いオリーブ色の自然釉が厚くかかり、それが胴へ数条の釉なだれとなって流れ下る。窯の中で飛んだ灰が高温で溶け、器肌に降りかかった結果である。文様も釉も、左右対称をねらってはいない。芒はかたむき、虫は散り、釉は火の流れにまかせて落ちている。

制作は平安時代後期、十二世紀とされる。京の宮廷文化が成熟の頂点を過ぎ、やがて中世の荒々しい力へと移り変わっていく時期にあたる。この壺には、その両方の気配がある。平安和歌の叙情を、堅牢な地方窯の器に刻みつけたような姿だ。

死者を納めた器

これほどの作でありながら、もとは人目にふれるためのものではなかった。地中に埋められた蔵骨器であり、九百年ほど前に世を去った人の火葬骨を収めていた。発見されたとき、骨はまだ内部に残っていた。骨はのちに取り出され、あらためて供養埋葬されている。

この種の大型の壺は、平安から中世初頭にかけて、いくつもの用途に使われた。農村では穀物や水を蓄える容器となり、信仰の場では別の役割をになった。経塚に埋めた経筒を守る外容器として、あるいはこの壺のように、死者の遺骨を納める蔵骨器として。奈良時代以降、火葬は貴族や僧のあいだに広まっており、名のある窯の手堅い壺は、その骨壺としてふさわしいものだった。そうした器に秋の景色を選んだことには、静かな含みがある。実りを終えて種をつける草、夏の終わりに舞う蜻蛉は、ひとつの季節の終わりであり、ひとつの生の完了でもあるからだ。

どこで焼かれたか ― 渥美窯をめぐって

この壺がどの窯で焼かれたかは、長く議論されてきた。かつては愛知県の常滑窯に求める見方が有力だった。近年は、同じ愛知県の渥美半島、現在の田原市一帯に広がる中世の古窯群、すなわち渥美窯の作とする説が有力になっている。いずれも十二世紀に興った高火度焼成の窯で、古い猿投窯の流れをくむ。

これらの窯は、宮廷向けの上品な施釉陶を目指したわけではない。農耕社会のために大型の壺や擂鉢を量産し、丘の斜面に築いた長い窯で硬く焼き締めた、実用本位の窯である。そのなかでこの壺が際立つのは、器肌に施された刻線の絵だ。渥美の壺の多くは無文に近い。ここでは陶工が薄い刃をとり、芒・柳・瓜・蜻蛉を、書をしたためるような気負いのない手つきで描き出している。実用の形が、季節の絵へと変わっている。

見どころ ― 三段の刻文と「上」字

文様は大きく三つの帯に分かれている。上から下へ順に読み解くと、見る楽しみがいっそう増す。

頸部では、細い芒の線のあいだを蜻蛉が飛び交う。突帯と並行する沈線で画された肩部には、もっとも丁寧な仕事が集まっている。器を一周する芒の葉に柳と瓜の蔓がからみ、そこへ厚く溜まったオリーブ色の釉が、文様を浮き立たせる。その下の胴は、大柄な芒三株にゆずられ、線はより太く、より自由になる。上部の繊細から下部の大胆へ、視線が自然に降りていく構成だ。

口辺の内側に目をこらすと、焼成前に刻まれた「上」の一字が見つかる。何のための文字かは確かでない。作り手や工房の符牒とも、据え付けの向きを示す指示ともいわれる。こうした小さな印のひとつひとつが、設計された器ではなく、人の手でつくられた器であることを感じさせる。

主役の芒(すすき)は、和歌や絵画において秋の野を代表する草である。のちに琳派が金地の屏風いっぱいに描く画題だが、この壺はその主題が立体にあらわれたもっとも早い遺品のひとつにあたる。器の前に立つことは、千年にわたって日本美術を流れつづけた「秋」の感覚と向き合うことでもある。

国宝に至るまで

壺が掘り出されたのは昭和17年(1942年)4月、神奈川県川崎市南加瀬、加瀬山の南端で行われていた道路拡張・土取りの工事中のことだった。現場は慶應義塾の日吉キャンパスにほど近く、当時この地域の考古調査を進めていた慶應義塾が、塾長・小泉信三のもとでこれを収めた。所有は今日にいたるまで学校法人慶應義塾である。

評価は速やかだった。昭和24年(1949年)2月に重要文化財に指定され、昭和28年(1953年)3月には国宝へと格上げされた。多くの資料は、これを日本でつくられた陶磁器として最初の国宝に挙げる。日本がみずからの古陶をどれほど重く見るようになったかを示す画期である。価値の核心は、洗練された絵画的な意匠と、中世地方窯の力強い性格とがひとつの器に同居している点にあり、八百年もの埋没を経てなお保存状態が良好であることも、その重みを増している。

壺を見る、その周辺をめぐる

壺は東京・上野公園の東京国立博物館に寄託されており、平成館1階の考古展示室で公開される。ただし国宝は保護と展示替えのため通年で出ているわけではない。これを目当てに足を運ぶなら、博物館の展示案内であらかじめ公開期間を確かめておきたい。

上野公園は一日かけて歩く価値がある。東京国立博物館だけでも複数の建物に約12万件を収蔵し、周辺には東京都美術館、国立科学博物館、国立西洋美術館が並ぶ。壺がもともと眠っていた川崎の加瀬山一帯は、東京都心の南西、日吉に近く、東急線で訪ねられる。もっとも、戦時下の発掘の痕跡が今に残るわけではない。

Q&A

Q秋草文壺は東京国立博物館でいつでも見られますか。
Aいいえ。国宝のため特定の期間のみ、平成館1階の考古展示室などで公開されます。ご来館の前に、博物館の展示案内で現在公開中かどうかをご確認ください。
Qこの壺はもともと何に使われたのですか。
A蔵骨器として使われました。昭和17年(1942年)の発見時には火葬骨が納められており、骨はのちに供養埋葬されています。この時期の大型壺は、貯蔵用や経塚の経筒を守る容器としても用いられました。
Qどのような草花や生きものが描かれていますか。
A主役は芒(すすき)で、胴に三株大きく刻まれています。肩や頸部には柳・瓜の蔓・蜻蛉が加わり、いずれも秋を象徴する画題です。
Qどこの窯で焼かれたのですか。
A愛知県・渥美半島の渥美窯の作とする説が有力で、年代は十二世紀とされます。古くは近隣の常滑窯に求める見方もあり、いまも研究者のあいだで論じられています。
Q東京国立博物館へはどう行けばよいですか。
A上野公園の北端に位置し、上野駅(JR・東京メトロ)から徒歩約10分、鶯谷駅からはより近い距離です。開館は通常9時30分から17時、月曜休館で、入館は閉館の30分前までです。

基本情報

名称秋草文壺(あきくさもんつぼ)
区分国宝(工芸品)
時代平安時代後期・12世紀
渥美窯(かつては常滑窯とも)
員数1口
寸法高 約40.6センチメートル
出土地神奈川県川崎市南加瀬(昭和17年・1942年4月)
指定重要文化財 1949年2月18日 / 国宝 1953年3月31日
所有者学校法人慶應義塾
所在東京国立博物館(寄託) 東京都台東区上野公園13-9
公開平成館1階・考古展示室にて展示替えのうえ公開

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース ― 秋草文壺
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/384
文化遺産オンライン(国立文化財機構) ― 秋草文壺
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203699
東京国立博物館 ― 来館案内
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=113

最終更新日: 2026.06.12